モンスターを手放した話

約1年半くらい前、BABYMETALがロンドンのウエンブリーアリーナ公演を成功させたという記事を目にしました。筆者は、昔から、日本人が海外で成功を収めたという話に弱いところがあり、どんなバンドなのか興味を持ち、早速Youtubeで検索してみました。

 

見始めると、自分でも理由がわからない感情が押し寄せてきて、それから1ヶ月くらい、BABYMETALの動画を見続けることになりました。「メイト」と呼ばれるファンの多くは、その魅力に嵌ったまま逃れることができず、精神的に虜のような状態になってしまう人も多いと聞きます。

 

幸い、筆者の場合は、クリエイターの視点も持っているためか、自分に起きた現象を一歩引いて見ることができ、深みにはまらずにすみました。ただ、「ベビメタロス」といわれる感情を、ほんの少しだけ体験したことは事実です。

 

そのとき、BABYMETALチームは、ただクリエイティブな仕事をしているというだけでなく、何か神がかっている力があることを感じました。その理由は何なのだろうということを、ずっと考えていたのですが、いずれにせよ、その時、自分もこういう仕事の仕方をしないといけないな、と思ったものです。

 

BABYMETALのエピソードで印象に残っているのは、たくさんあるのですが、特に筆者が影響を受けたものをあげると、一つには、プロデューサーのものづくりへのこだわりです。プロモーション・ビデオのシーンを何十回も作り直したとか、作曲家が何度も修正したとか、という話を聞くと、彼らが単に「形を作ること」自体を目的としているわけではないことがわかります。

 

もう一つは、ボーカルのSU-METALが、ある雑誌のインタビューで語った話です。自分の中にモンスターがいる事に気がついて、ある時、そのモンスターに自由にやらせてみたらどうなるだろうと思って、ピョッと手放してみた。そうしたら、パフォーマンスをするたびに、そのモンスターが大きくなって、それが超人的なパフォーマンスをするようになったのだそうです。

 

筆者が思うに、「中元すず香」は、今世、地上界に出た肉体人間であり、SU-METALでいるときは、彼女の過去世で蓄積してきた魂の経験値のエネルギー体の部分が出てくるのであろうと思います。それがモンスターです。その部分のエネルギーには、明らかに男性エネルギー体が含まれています。この力(智慧)のことを、仏教ではパーニャパラミタと言っています。

 

筆者は、このモンスターの話から、色々学べることがあると思っています。それは、一般人にも当てはまる一つの成功モデルで、超人的な働きをするための意識のメカニズムについてです。

 

もちろん、もともと、それに関する自分の人生のテーマと、魂の経験値を持っているということが前提になります。SU-METALの場合でいうと、彼女は、メタルの暗い想念の世界を光で破壊するという、ある種の使命を持って生まれてきたということになっていますが、おそらく、「メタルの救世主」という設定は、ただの演出ではなくて、実際にそうなのだと思います。

 

その上で、こうしたパーニャパラミタを発揮するためには、二つの条件があると思います。

 

まず一つ目は、「想念帯の曇り」をなくすことです。具体的には、それは「つかむ(執着)」と「裁く」という、二つの思いを完全に放下することです。言い換えると、エゴを超越するということです。スピ系では、日々、「つかまなかったか」「裁かなかったか」という反省を繰り返すことで、想念帯の曇りが消え、潜在意識の中にある、自分が過去に蓄積してきた様々な能力が自然に蘇ってくるとされています。

 

BABYMETALのメンバーは、見るからに想念帯に曇りがなさそうです。3人のフロントウーマンの言動から、彼女たちが驚くほどピュアな心を持っていることが感じられます。「つかまない」「裁かない」というマインドは、自然に維持できていると思われます。

 

もう一つの条件としては、「愛の(通路になる)思い」です。エネルギーとしての愛は、高次元から、自分の行いを通して、三次元世界に表現され、相手に伝わっていきます。エネルギーが現象化するには、何らかの、三次元的な行いが必要になります。BABYMETALについて見てみると、彼女たちは、明らかに「愛を届ける」という思いを持って、パフォーマンスをしています。

 

つまり、BABYMETALは、奇跡的に、パフォーマーやクリエイターやその他の関係者が、地上的な汚れた想念から離れた(守られた)磁場の中にいる結果として、超人的なパフォーマンスを見せることができている、ということが想像されるのです。

 

実は、仏教で目指しているのは、こういう境地です。スピ系が目指しているのも、こういう境地です。「神がかった」力を発揮できるのには、理由があるのです。

 

こう考えると、いい年をした「メイト」たちが、彼女を女神と崇めて熱狂する理由が分かります。筆者も含め、彼らは、己の、欲にまみれた、神のいない人生のありようをよく知っているはずです。だからこそ、実際に神のごとき働きを見たときに、そこに神がいることの証しを感じ、その謙虚さの波動から、何かを学ぼうとするのだと思うのです。

マイナスからの出発

時々、赤坂の豊川稲荷の奥の院にお祭りされている、吒枳尼眞天(だきにしんてん)様にお参りしています。昨日も久しぶりにお参りしてきました。

 

筆者は、いろいろな神様を崇敬しています。この大宇宙そのものであるオーム意識、太陽意識、地球意識、そしてキリスト教やイスラム教でいう父なる神(GOD)、日本を統括するアマテラスとオオクニヌシ、そして吒枳尼眞天です。

 

崇敬するというのはどういうことかというと、これらの神様はすべて目に見えない霊的存在です。地上に出た人間である自分自身も、肉体であると同時に霊的存在でもありますが、それゆえオーム意識から地球意識までの波動は自分の霊的な身体(アストラル体)の中に浸透しています。父なる神とアマテラスの波動は、私の身体というよりは、意識の中に浸透しています。

 

オーム意識は、人間に、愛の思いによる創造の力を与えてくださっています。太陽意識は無限に挑戦するエネルギーを、地球意識は全人類がワンネスとなる体験の場を提供してくださっています。

 

父なる神は、人類の進化を見守る高度に進化した人格霊、アマテラスは日本の和の精神の大元にある生命体です。アマテラスによって培われた、民族としての意識の容れ物が、日本の国民の心を長い間守ってきました。

 

オオクニヌシと吒枳尼眞天は、私たちが三次元世界で活動するときに支援してくださる霊的存在です。オオクニヌシは言わずと知れた日本の国土を守る八百万の神の長です。荼枳尼真天は、仏法を広めようとする者を守護し支援する使命をもつ方です。

 

ちなみに、筆者は、毎朝、地元の産土神社を参拝しているのですが、そこのご祭神は天照大神です。

 

浸透するというのは、これらの神様が発している思いのエネルギーに共鳴すると言う意味です。自然に浸透するのではなく、こちら側が思いを向けることで、浸透するのです。

 

もちろん、いろいろな神、つまり霊的な存在がおられるわけですが、それらがおられると言うことは、実際に目に見えない意思なり思いのエネルギーがそこにあるということです。ある神を尊崇すると言うことは、自分の身体と意識がそのエネルギーと繋がると言うことです。

 

それぞれの思いに共鳴することで、そのエネルギーが自分の中に増幅されます。つまり崇敬するというのは、エネルギーの増幅作用なのです。そして、エネルギーには、ポジティブなものもネガティブなものもあります。ですから、その識別をする事が大事です。

 

ところで、筆者がいた会社は、IT企業で、非常に厳しいグローバルの競争を勝ちぬいている企業でした。筆者自身は、そうした弱肉強食の競争社会の中にいる事はストレスが多く、「自分には全く向いていない」と思いながらも、修業だと思って、耐え抜き、なんとか最後まで走れたと言うのが実情です。

 

要するに私自身には、なんとしてもお金を儲けようとする、商売人としての強い思いがありません。その事は、私自身がよく自覚しています。そこで、吒枳尼眞天にお願いし、仕事を見守っていただき、折に触れ指導して頂けることを期待することで、安心を得ようということになります。要するに、自分の資質からすれば、神頼みをしなかったら、事業は絶対にうまくいくはずがない、という、マイナスの自覚から出発しているわけです。

 

「商売の才覚がある事はいいことだ」「自分はあらゆる才能の面で他人を凌駕すべきだ」と言うような、価値観のものさしを放棄するということです。「商売の才覚がなくても、商売を始めても構わない」「商売の成功で自分の優秀性を証明しなくても構わない」という、逆の価値観を自分の物差と取り替えてバランスをとる、ということです。

 

もし、そもそも「商売の能力がなければならない」ということになると、「自分には商売の才覚がある」ということを証明するためにエネルギーを使わなくてはならなくなります。ところが、こういう価値観は、「現状のままではいけない」という「恐れ」を握っているからこそ出てくるものなので、「思いが実現する」という法則によって、その思い通りの結果を呼び込むに違いありません。

 

だとすれば、「商売の才覚はなくても構わない。」という「ありのまま」を認めるところから出発した方が、自分のようなものの場合は、むしろうまく行くのではないか、ということです。

 

ただし、吒枳尼眞天が登場すると言う事は、自分の仕事を、世の中に神仏の教えを広げる、と言う文脈の中に位置付けるという事になります。逆に、こういうストーリーを作って、神仏の加護を信じて、そのストーリーの中に自分を投げ込むこと自体が、未来を創造する力を生むと考えられます。

 

「神仏の教え」というのは、もちろん、特定の宗教の教義のことではありません。それは、大岡越前守が吒枳尼眞天を信仰していたことからも分かります。大岡越前守は、世の中に善を広める仕事をした人ですが、別に宗教家ではありません。それでも吒枳尼眞天の守護を受けられたのであれば、神様の側からすれば、それも立派な「仏法護持」の活動であると評価されたということだと思います。

 

スピリチュアル系でも、エネルギーを感じることに長けている方は、ともすれば高級霊ばかりを有難がり、身近な神様を一段低いところに置く傾向があります。しかし、筆者が思うに、この世的なことも大事であって、スピ系はむしろこの世的な事が不得意です。

 

三次元世界に肉体を持って生きている以上、身近な神様も尊崇して、この世的な仕事に、自助努力で一生懸命に取り組むことが大切なのだろうと思います。この地上に生きているということは、そういう、貴重な学習の機会が与えられているのだと理解しています。

瞑想型の経営

筆者は35年間ある企業に勤務してきたのですが、ある日、定年の時がやってきて、突然「自分はこれから何をしたらよいか」という課題を突きつけられました。

 

ある意味幸せだったのかもしれませんが、それまでは、先々のことなど全く考えていませんでした。

 

筆者にとっては、60歳というのは、まだまだ、人生の折り返し点に過ぎないという感じがします。つまり、これからまだ35年くらい、長い後半戦があって、そのあいだ何か、自分が意義を感じられることをやって生きていかなければなりません。そして、その選択肢は、自分が考え出して作っていかなければ、誰も提供してはくれません。

 

一応、会社には、プラス5年間の延長期間の選択肢がありました。しかし、それはわずか5年に過ぎません。一つのモラトリアム期間です。その5年が終わったら、その時点で、まだ自分には残りの人生が30年あります。であれば、一足早く、次の人生の設計を始めてもいいかもしれない。そう思いました。

 

それから、起業の本を読んだり、事業構想の講座を受けたりして、自分のマインドを雇用者から経営者に変える方法を、試行錯誤しながら色々考えました。今も考え中です。

 

思うに、会社を作るというのは、自分という個性を持った人格の社会的延長の実体を作るということです。その際、社会的な活動をするための、どのような目的でも理念でも持たせることができます。

 

そこで、少なくとも35年間は、活動が持続できるようにと、思いっきり大きな目的や理念を作りました。

 

それが、こちらに書いた、「社会の課題の解決、思考エネルギーの創造、明るい未来ビジョンの提供」に役立つ「心の種子を作る」ということです。

 

こうして、とりあえず、小さな自分の自我の範疇を超えて活動する、理念的な基盤を作りました。あとは、自分がそのコンセプトの忠実に、ビジョンの実現に向けて、活動していくだけです。

 

そうして、実際に活動を始めてみて、気がついた事があります。

 

それは、「企業活動」と「自己実現」の違いです。

 

その活動が「企業活動」であるためには、事業を「自分」のためにするのではなく、「事業の目的自体」のためにする事が必要です。

 

自分のためにするのは、「自己実現」なのであって、そこには、私心があります。

事業を「自己実現」として実施した場合、掲げているビジョン自体は無私であるのに、やっている活動は無私ではなくなってしまうのです。

 

その違いは一体何なのだろうと思いました。

 

結論から言うと、自分の「欠乏感」をその事業を利用して埋め合わせようという密かな欲求が、ほんのわずかでもあってはうまくない。そのためには、まず何よりも、「何もなくても満ち足りていること」が、一番大切なのではないかと思いました。

 

これは、スピリチュアル的には、「いまここ」とか「ゼロポイント」とか、あるいは「中道」「中庸」というような概念です。心が宇宙の時空連続体の中心の特異点におかれている状態です。

 

このゼロポイントから外れてると、「このままではいけない」という思いが出ます。

その「足りない自分」「空虚な自分」を穴埋めしようとして、遠大な使命に自分を奉仕させようとします。

その結果、無意識のうちに「事業目的」の奴隷になってしまいます。

 

遠大な使命を持つのはいいことなのですが、その使命の奴隷になってはいけないのです。

このメカニズムは、ある企業の波動がどのようなものであるかによって、事業の規模に関わらず、起こりがちな問題だと思います。

こう言うスピリチャルな観点は、普通の、世の中一般の「起業のすすめ」には含まれていないと思います。

 

もう少し、詳しく説明します。

 

「このままではいけない」と言う思いは、「恐れ」です。

「恐れ」は、どうしたらなくなるでしょうか。

自分を「愛のエネルギー」で満たしてあげることです。「愛のエネルギー」が全てを癒します。

 

そのためには、瞑想です。

 

まず、「考えない」で「感じる」モードになり、ハートのチャクラを開いて、ハートに意識をおきます。そして、自分の視点を、時空連続体の中心点に重ねて、過去、未来、現在に「いまいる」自分に対して、愛と祝福の思いを送ります。

 

自分を評価し、自分を愛し、自分を癒してくれるのは、自分です。自分の意思一つで、他者に対してだけでなく、自分に対しても、ハートのチャクラから、愛のエネルギーを送る事ができます。

 

「このままではいけない」と言う「恐れ」の気持がなくなれば、その活動自体から、無意識に何かを奪おうとする気持ち、あるいは、その活動に依存しようとする気持ちがなくなります。

 

スピリチュアルな次元では、その活動は、「自分が」三次元の世界に創造するものであって、「恐れ」があると、そのポジティブな方向の思いにフォーカスできません。

 

私達に必要なものは、心の平和であって、心の平和は何かの外的な条件によってもたらされるものではありません。瞑想によって、あるがままの心になったときに、満ち足りた満足感は内側から溢れ出てきます。

 

エゴは、外の世界から何かを奪わなければ満たされない、心は平和にならない、と無意識で考えています。だから、その事業を「通して」なんとか自分の「自己重要感」「満足」「心の平和」を「得よう」とします。

 

ところが、その思いを生み出す裏側の思いは「いまの自分は重要ではない」「今のままでは自分は評価されない」「今のままでは満足できない」と言う「欠乏」の思いです。

 

スピリチュアルな心の法則からすると、この隠された信念のほうが、実現してしまいます。

 

これは言い換えると、「私心」があると言うことだと思います。こういう意味の私心がなくなれば、事業の目的自体のために、自分を使って、本当に社会の奉仕することができるようになると考えられます。

 

求められるのは、そういうマインドだと思います。言い換えれば、「エゴの次元を超えた世界にフォーカスする」ということです。こういうマインドで仕事をすることを、私は「瞑想型の経営」と呼びたいと思います。これが、正しいスピリチュアリティに基づいた企業活動の核になるマインドではないかと思います。

 

瞑想の目的は、自分が発している思いの波動を、ゼロポイントの世界に調律することにあります。本当の思考ができる領域は、その世界の中にあります。「瞑想型の経営」は、宇宙との共同作業で事を進めていくものですが、エゴの波動の中では、正しい思考ができないのです。

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