「地球人のための超植物入門」書店でも購入できることになりました

一つご報告があります。「地球人のための超植物入門」を扱っていただける取次を探していたのですが、この度、神田村の八木書店様に、取次いでいただけることになりました。これにより書店経由でも購入いただけるようになりました。

 

当ブログでも何度か書きましたが、アセンド・ラピスは定年退職後のアクティシニアが異業種参入して始めたもので、本を扱う業界の知識は書物から得たものだけで、実際の業務については全く経験がありません。八木書店様とやりとりを始めて、何がどうなっているのか、具体的な業務の内容がだんだん頭の中にマッピングされてきたところです。

 

書店様向けの新刊案内チラシも作りました。こちらのページをご参照ください。

 

どうもこのチラシが、書店と出版社をつなぐ最重要のツールとなっているようです。出版社は、こういうチラシを用意して、書店宛に送るのだそうです。このチラシは、下の方が注文書になっていて、書店はこれに「番線」という、大手取次が手配するのに必要な情報が入ったハンコを押して、出版社にFAXで戻します。すると、数日後に書店に本が届くという物流の仕組みになっています。

 

大手取次が自動的に書店の仕入れをアレンジする「新刊委託配本」というプロセスが一般的な配本のイメージなのですが、この他に書店側でpullする「注文扱い」というプロセスがあり、八木書店で扱っていただけるのはこちらです。委託配本は配本数や返品リスクの問題もあり、小出版社には向かないので、「地球人のための超植物入門」は、もともと注文扱いしか考えてはいませんでした。

 

まず、出版社は、取次側での在庫の規模を決めるために、事前に書店からの注文を取って、取次に受注数を伝えなければなりません。そこで、これから、そのための、書店とのコミュニケーション、具体的には、FAX送信と書店営業を開始しようと思っています。

 

アマゾンだけで販売するのであれば、潜在的な読者の方へのアプローチを考えることとなりますが、書店でも販売するので、まずは書店のご担当者様に対して情報を提供しなくてはなりません。そのほとんど唯一の手がかりが、チラシです。

 

いくつか一般的なチラシの参考例を研究してみました。個人的に思ったのは、書店向けの情報は、読者向けの情報とは違うということです。読者は、本の内容自体に興味があります。ところが、書店の担当者は、一日200冊の新刊が発行される中、いちいち中身のことを考えていられないという事情があります。チラシに書かれた本の紹介文は、50から100文字程度でまとめなければいけません。それ以上の情報量があると、まずそれだけではじかれてしまうに違いありません。

 

しかし、こちらとしては、中身についても語りたいという気持ちもあります。結局、「これだけ読んでもらえればいいや」というコピーを太字で書いて、細かい内容は、「何か書いてある」くらいで見てもらうようなデザインにしました。

 

その「これだけ」の内容は、以下のようなものです。

 

「植物の気持ちがわかる本」 

「植物と話ができる大学教授が、植物たちの生き方や、地球意識と自然霊が織りなす目に見えない世界を語る、スピリチュアルなエッセイ集。」

 

それから、もう一つ、このほかに、書店の方が、この本の売り方を具体的に考える手がかりになるような情報も、書店の方にお届けしたいと思いました。

 

実は、それが、編集の観点としても一番重要なことでした。というのは、本づくりのコンセプトとして、本の機能を定義して作り込むことをしたかったからです。本も電気製品と同じように、ユーザーになんらかの付加価値をもたらすものでなければならないと思います。「読んで面白い」だけでなく、それに加えて「心の栄養」になるような何かが入っていないといけないと思うのです。食品に含まれている栄養の中身が表示されているのと同じです。

 

そこで、キーワードという形で、「地球人のための超植物入門」の潜在的な価値を表現しようと思いました。

書店の方が、「どういう人に勧めるか」を考えやすいようにです。


具体的には、

本書の内容と関連するキーワード:
「植物は<知性>を持っている」植物学系
「自然にも存在する権利がある」エコロジー系
「不耕起農法」「ハイポニカ」自然農法系
「里山」「森林セラピー」地方創生系

 

という言葉を表示してみました。以下、それぞれについて、少し説明をいたします。

 

まず、植物学系の興味を持った読者にお勧めできるのではないかと思います。類書としては、「植物は<知性>を持っている」という本があります。植物学の世界では、植物は単に生理的な反応をしているだけではないことや、森の植物が全体でコミュニケーションをとっていることとか、経験を積んだ古木が若い木に色々な指導をしているといった、植物も人間と同じように生きているという、新しい植物観ができつつあります。そうした学術的な本が示唆しながらも、一線を越えられなかった部分を正面から語っているので、類書を読んでいまひとつスッキリしなかったのが、「そうだったのか!」とカタルシスをもたらしてくれると思います。

 

次に、「神聖なるエコロジー」という「自然それ自身が生存する権利がある」という考え方があります。これはサティ・シュクマールという人が提唱しているのですが、環境を守りエコロジーや持続可能な世界を希求する理由として、人間が生きられなくなるから、というような「人間が上、万物が下」というある意味身勝手な発想ではなくて、「自然それ自体に生存する権利がある」からだとします。「自然」というのは、植物や動物だけでなく、山や川や海の自然それ自体をいうのでしょうし、「生存する権利がある」というのは、「生命があって、生きている」ということを言っていますから、これは、板野さんが語る「地球には生命がある」「植物には魂がある」ということと全く同じ主張です。

 

ディープエコロジーの本はどれも哲学的でわかりにくいのですが、要するにその本質、中核の概念は、植物も人間も命があるということでは平等なのだという感覚であって、それは頭で理解するものではありません。「地球人のための超植物入門」は、「植物も人間も同じなんだ」と心から思わせてくれるので、エコロジーの最良の教科書になるはずだと思います。

 

「地球人のための超植物入門」は、自然農法の活動をしている方にも重要な示唆を与えてくれる本だと思います。板野さん自身は、水耕栽培を研究された方ですが、それは原理的な法則を探るという科学の切り口からなされた研究であって、どの農法がいいかという観点からではありません。植物も土も生きている、という切り口で、どういう農法を研究されている方にも参考になる、植物の取り扱いに関する統合的な観点を与えてくれるはずです。

 

また、「地球人のための超植物入門」は、地方創生の文脈で里山を観光資源とするための企画を考えている担当者の方にも、新しい視野を与えてくれると思います。その里山が潜在的に持っている力は何であるのか、とか、長期的には植生をどう変化させていったらいいのか、といった、巨視的な発想ができるようになるのではないかと思います。何より、植物が好きになるはずです。

 

もう一つ、常に新しい情報を求めているスピリチュアル系の方にも有意義な内容だと思います。特に、自然霊と地球の持つ生命エネルギーの関係とか、全てに意識があるというアニミズム的な世界観については、これまで文学的な説明はありましたが科学的な説明はありませんでした。神道系の世界観を、科学者の言葉で語ったものとして、スピ系の興味を掻き立てることと思います。

 

このように、幅広く色々な読者の方の役に立つ本だと思いますので、今後多方面の潜在読者の方の目に触れるように、宣伝していけたらと思いますが、まずは、全国の書店様に知っていただかなくては、と思っています。

植物についてのエッセイを本にまとめました

このたび、板野肯三さんという方が書かれた、植物についてのエッセイを、本としてまとめさせていただきました。本の紹介ページは、こちらです。

 

板野さんは専門がコンピューター工学の大学教授ですが、ものすごい植物愛に溢れた方です。それに、ちょっとした秘密をお持ちです。その秘密は、本を読んでいただけるとわかります。

 

最初に打ち合わせさせていただいたときに、次のような方向性で行きたいね、と言っていたのですが、出来上がってみると、本当にそういう本になっていました。

 

1 その本を読んだ人が、花や植物の気持ちがわかるようになるような本を作る。
2 宇宙的な視野で植物を理解できる、新たな世界観の物語を提供する。
3 それを知ることで植物に寄り添う視点ができるようなもの。
4 原理的な話だけでなく、実際に植物と会話してその個性や、何を求めているかなど具体的な事例を挙げる。

 

なんとなくお分かりと思いますが、そうです、板野さんは植物と話ができるのです。

 

筆者は個人的に、植物と話ができる人をもう一人知っています。京都でスピ系の仕事をされている方です。それに、書名は忘れましたが、九州の方に、神社の楠の御神木から聞いた話を本にしている方もいて、その方の書かれた本を筆者は読んだことがあります。

 

アイヌの神話を読むと人々は日常的に植物と対話をしていますし、ネイティブアメリカンの人たちも全員ではないにしても植物と話せる人は多かったようです。植物と話ができる人は、世の中に意外にたくさんいるのかもしれません。

 

この本を作るにあたって、筆者たちは板野さんと一緒に、植物園や、奥多摩のセラピーロードなど、何度も一緒に現地で取材をしました。取材でわかった情報は結構膨大な量があって、全部は書ききれないので、今回の本に収められているのは、ほんのさわりだけです。

 

海外の本では、「植物は<知性>を持っている」という本がベストセラーになっているようです。その本は植物が人間のように知的な活動をしている証拠をたくさんあげて、植物には知性があると主張しているのですが、流石に「植物は意識を持っている」という言い方はしていません。

 

でも、知性があるということは、外の世界のことを捉える意識があるということと同じはずです。意識があるということは、彼らも我らと同じく彼自身のインナーワールド、意識の住む内的な世界を持っているということですから、それは魂があるということと同じはずです。知性があるという言葉を使うと科学で、魂があるという言葉を使うと似非科学だという人がいるのは、なげかわしいことです。

 

板野さんは、そこのところを飛び越えて、魂という言葉で、植物の思いにストレートに切り込んで行きます。というより、植物のエネルギーにタッチすると、魂同士がつながってしまうのだそうです。

 

この本は、易しい言葉で書かれた、29個の珠玉の植物エッセイ集です。板野さんの軽妙な語り口に乗って、驚いたり感心したりしているうちに、自然に板野さんの植物愛が体の中に染み込んできます。

 

現代人は、植物を物と同じように考えています。それは、植物のことを人間があまりにも知らないためです。この本を読み終わったら、もう植物を物としてみることはできなくなります。

小説の品質について

これまでも何度か書いているように、筆者は本づくりをアプリケーションづくりと同じ工程の中で開発しようとしています。それは具体的には、まず業務の目的を定義して、そのための機能を定義して、それを入出力やユーザーインターフェースのデザインに展開するということです。しかし、伝統的な考え方からすると、特に文芸のジャンルは、文章による芸術ですから、根本的にシステム作りとは相いれないものなのではないかという批判がありそうです。

 

実はこの問題は、突き詰めると芸術についての考え方、芸術論にまで行きつくと筆者は考えています。芸術論というのは、芸術の目的を考えることとほぼ同じです。もちろん、「芸術に目的なんかない」というのも、一つの考え方ではありますが。

 

「音魂よ、舞い上がれ!」の中で、著者の橋口さんも独自の芸術論を語っておられます。それとは異なりますが、筆者も筆者なりの活動の根拠となる考えを持っています。それはトルストイの芸術論です。

 

トルストイは、とても宗教的な人でしたので、一つの理想を持っていました。簡単にいうと、世の中を愛の溢れる世界にしたいと思っていたのです。つまり、目的は、普遍的な愛で、それを実現するためにキリスト教的な世界観を骨格にして、それを社会や、個人の資質や習性にまで展開するための手段として、科学と芸術を位置付けたのでした。特に芸術については、宗教と異なり、言葉を使わないで、感情を使ってダイレクトにメッセージを伝えることができると考えました。

 

こうした芸術の目的論をもとにした場合、成果物である小説が持つ機能が重要になります。筆者の考えでは、小説の持つべき機能とは、「感化力」のことです。別の言葉でいえば、人を元気にする力とか、優しくする力とか、安らぎを与える力とか、そういったエネルギーを現実に持っていることです。

 

これは、何も小説や絵画などの芸術でなくともよく、例えば、建築デザインの場合、「住む人を健康にする家」「住む人をお金持ちにする家」といった機能が考えられます。実際、こういうテーマで風水を使って建築設計をしているデザイナーもいます。

 

ある原理の下に建てられた建物がなぜそういう力を持つのかについては、なんらかの理由付けが必要になりますが、どのような原理であれ、とにかく自分でその仕組みを考えて、仮説を立てて実験する態度が重要であると思います。

 

トルストイが重視した「感化力」は、読んだ人を「愛の人」にする道徳的感化力のことです。キリスト教の愛ですから、それは「赦し」です。トルストイは、小説を読んだ人が、それに感化され、寛容になって、実際に生活の中で愛の行為をなす人になる、ということを目指して、小説を書いていたのだと考えられます。

 

筆者が小説に求めるものは、読者が、自分の中にすでに持っている光、愛、あるいは聖なる力に気がつくという意味での「感化力」です。そういう小説が、いまの世の中にはほとんどありません。

 

筆者は、小説は、読者の将来を左右するくらいの大きな力を持っていると思いますが、その感化力を決める、一番の決定的な要素は、書き手のもつ世界観だと考えます。

 

というのは、小説を読むと、読み手は、無意識のうちに、書き手が前提としている世界の中に引きずり込まれていくからです。それは波長の世界ですので、その小説の世界の波長に染まると、読者はそれに同調した体験を引き寄せ、それにふさわしい世界が実際に展開します。

 

そこで問題なのは、その小説に、言葉として何が書かれているかではなく、作者がこの世界をどういうものとして理解しているかという事です。物語の行間に、あるいは言葉の端々に、作者が無意識に前提としている世界がもれなくついてきます。そして、「世界とはこういうものである」「私とはこういうものである」「人生とはこういうものである」という定義が、読者の無意識の中に刷り込まれていきます。

 

有名な某ノーベル賞候補作家の本でも、筆者は読むと何か淀んだものが体にまとわりついてくるような感じがします。それはその作家がその小説を書いているときに通じている意識の世界の波長の中に入ってしまうからです。

 

作者が持っている世界の波動の明るさ、あるいは清浄さという点からいうと、「音魂よ、舞い上がれ!」は、某ノーベル賞候補作家の本をはるかに超えていると思います。

 

おそらくその原因は、著者が持つ、この世界についての基本的な信頼感にあります。言い換えると、まず、目に見えない世界があることを前提としているのは某ノーベル賞候補作家と同じですが、その世界が愛一元の世界だということ、そして、人間がその自由意思でこの世界を良い方向に変えていけると信じていることです。

 

技術はもちろんですが、この書き手の世界観、あるいは基本的な信念こそが小説の価値を決める最重要の要素だと考えます。もちろん、それは、筆者なりの芸術論を前提としての話ではありますが。この書き手としての素養は、付け焼き刃では到底太刀打ちできない類のものです。

 

「音魂よ、舞い上がれ!」は、15歳の少女の話ですが、これから自分の世界を創造していく若者に必要なのは、旧世界でくたびれ果てた大人の「世界はこんな程度のものだ」という世界観ではありません。

 

実は、筆者は、15歳の頃、「人生はなんでこんなに苦しいんだろう」と思い、「いつか、人類を救う大哲学を作ってみせる」と志を立てたものでした。筆者は、なぜか哲学が大好きだったのです。結局、学者としての哲学者にはならなかったのですが、自分自身を哲学するという作業は、自分のライフワークとして、ずっと続けてきました。そこで現在思っていることは、(唯物的でなく)スピリチュアルな世界観を持っていることの大切さと、自分の思いを常に調律できる技術を持つことの大切さです。

 

その筆者の目から見ても、橋口さんのスピリチュアリティについての理解には確かなものがあると感じます。また冒険譚の部分は、かつての奇想天外なSF作家のエドガー・ライス・バローズの筆力を彷彿とさせるものがあります。(筆者は少年時代にバローズの小説が大好きでした。)

 

「音魂よ、舞い上がれ!」は、まだ自我が目覚めていない小学校高学年でも、冒険譚つきの神話として楽しく読む事ができます。おそらく、自我意識のできた高校・大学生には、それに加えて、自分が住む内的な世界が広がる面白さを感じてもらえると思います。さらに、成人、高齢者になっても、哲学的な深いテーマを考える材料が散りばめられているので、味わいのある歴史小説として楽しんでもらえると思います。

 

なお、「音魂よ、舞い上がれ!」は、主人公である瑠璃の自己形成小説(教養小説)になっており、1、2巻ではまだ未熟なのですが、巻が進むにつれて、神職である仁美や比呂志から色々教わって、知恵や知識が増してきます。

 

その教養とは、一言で言うと、アセンション後の地球人としての内的な世界の素養です。つまり、この本を最後まで読み通し、瑠璃とともに内的な経験を積むことで、知らずしらずのうちに、自分の世界が、アセンション後の世界にワープしてしまうのです。

 

いわば、この本自体が、光の柱であり、読者自体が、ボルテックスに変わってしまう、究極的には、そういう品質を作り込むことを目指しています。そういう小説が、ちょうど時代の変わり目にさしかかったいま、まさに必要とされているのだと思います。

「音魂よ、舞い上がれ!」の現在の制作状況

久しぶりの更新です。

今回は、「音魂よ、舞い上がれ!」の現在の制作状況についてご報告させていただこうと思います。

 

この本の企画を始めた去年の秋の時点では、遅くとも2月下旬には発刊したいと思っていました。で、今はもう2月下旬です。発刊を楽しみにされている皆さまには大変申し訳ないのですが、もう少しお待ちいただければと思っております。

 

そのかわりといっては何ですが、このブログで、今後、出雲での取材の内容とか、読みどころなどを、少しづつご紹介させていただこうかと考えております。

 

その前に、まず、製作が遅れている理由ですが、一言でいうと、コンテンツを何度も改定しているためです。

 

この「音魂よ、舞い上がれ!」の場合は、システムの様に、機能要件を設計して、テストを繰り返して、デザイン通りに動くかについて、ロジカルに検証しています。そして、改定しています。

 

言い方を変えると、色々な人に、いろいろな観点から、なんども叩いてもらい、その要求に対応していくことで、品質を高めようという考えで作っています。

 

すでに以前のブログでも書いていますが、筆者は既存の業界の暗黙知としてのノウハウを身体で習得しているわけではないため、試行錯誤で独自のノウハウを作ろうとしています。

 

1回目の改定では、ある出版社で使われているチェックリストで要素を点数評価をして、改善可能な部分を変えています。これはハイレベルな観点での評価です。この部分の知識は、編集というよりは、マーケティングのノウハウと言ったほうがいいようなもので、少人数でやっている会社には当てはまらない所もあるのですが、適用出来る範囲で、基本に忠実に考えようとしており、いちおう対応できたと思っています。

 

2回目の改定では、出雲地方に詳しい方から地元の観点でのアドバイスをもらい、その後出雲のパワースポットを取材し、さらにプロのサックス奏者の方にも取材して、そのコメントを反映しています。出雲と音楽は、読者層を意識したコンテンツの肉づけが目的です。取材は校正の一環です。

 

3回目の改定では、ある文藝の専門家の方からもらったいくつかの具体的なコメントを反映して文章を修正しています。日本の小説には、守らなければならないあるお作法があります。編集というより、作家の側の品質のチェックリストのようなものがあるのです。

 

そして現在、筆者が校正をしながら内容を検討しており、必要であれば、今後4回目の改定をする事になります。

 

校正とは言っても、主に、日本語の手直しです。筆者は、この本の内容は、日本文化の核心部分が面白く理解できるので、将来的には英語圏でも読まれる本になると思っているのですが、現在の原稿の日本語では、そのままでは翻訳ができません。日本語では文章の骨格まで省略することができ、それでもニュアンスとして日本人には伝わるのですが、英語圏では言語化しないと意味が理解されません。そのため、少なくともデジタルに翻訳できるレベルの日本語に書き換える必要があります。現在、この作業にかなりの時間をかけています。

 

「音魂よ、舞い上がれ!」は、全部で6巻あり、今回刊行を予定しているのは最初の2巻で、出雲地方を舞台とした話です。この2巻は古事記を題材にした神々の話で、神道や、日本人について、深く考える素材を与えてくれます。

 

古事記は、日本の神話なのですが、普通の人は、オリジナルの古事記物語を現代語訳したものを読んでも、正直、意味がよくわからないだろうと思います。筆者も分かりません。

 

ところが、「音魂よ、舞い上がれ!」を読むと、曖昧模糊とした古事記物語が、急に活き活きとしてくるのです。なにか、おとぎ話が3Dのハリウッド映画になった感じです。

 

それだけでなく、この小説のなかには「心の種」つまり、自分や人間や社会のあり方について深く考えるきっかけになるような、非常にたくさんの要素が含まれています。

 

ただ、筆者自身、この小説の中に含まれた要素について、まだ十分に整理が出来ていません。何しろ、2巻で600ページもあり、非常に長編であるということもあります。システム開発に例えると、システムの機能拡張をしているうちに、いろいろな機能が追加されて、マニュアルの改定が間に合わないというような感じでしょうか。

 

編集人としては、最初の読者として、含まれたテーマや、問題提起や、情報をきちんと整理して、自分の中で消化して、構造化する事が必要で、それが出来ないと、読者に対して、この本が提供する価値についての投げ掛け、ないしプレゼンテーションが出来ないということになります。その段階に至るまで、編集人である筆者の中でも、もう少し時間をかけたいと思っています。

 

いずれにしても、今後、随時進捗をお伝えしてまいります。

テラ・トーマスが本を作った不思議な方法

二週間ぶりの更新になります。この間、農業関係の本を数冊と、スピ系の本を一冊読みました。スピ系の本は、バーバラ・マーシニアックの「プレアデス+かく語りき」です。かなり有名な本なので、一度は読んでおかないといけないかなと思って、10年くらい前に買ったのですが、ずっと積んだままになっていた本です。

 

この本を編集したのは、テラ・トーマスという人です。筆者にとっては、内容もそうなのですが、特に、彼が本を作った方法が参考になりました。序文の中で、彼がプレアデス人から受けた、不思議な編集方法のガイダンスについて、詳細に書かれています。

 

そのポイントを要約すると、以下のようになります。

 

(1)自分自身の「意図」を使うことで本をまとめる。

(2)論理的思考に頼ることをしない=エゴから来る情報から自由になる=直観が導いてくれる。

(3)次に何が来るのかを理解しながらプロジェクトを遂行する。

(4)信頼が鍵

 

「この本を作るというプロセスであなたが頼りにできるのは信頼だけです。コミットメントがポイントなのです。あなたは本来のあなたにコミットすることが可能なのだということ、失敗はしないだろうということ、必要なものは全て与えられ、不自由することはないということを知るでしょう。あなたの意図の通りに全て上手くいくでしょう」

 

「この仕事におけるあなたの役割は、あなたが望むものを意図し、後はデータが流れて来るままにしておけば良いのです。このプロセスの中で、あなた自身についての発見を重ね、そして、情報をコード化していく中で、本が自然に出来上がっていくでしょう。この経験はあなたにとって驚くべきものとなるでしょう」。

 

(5)未来を引き寄せる

 

「プレアデス人は、次のようなガイダンスをしてくれた。毎晩眠りに就くときに、1分間、『プレアデス+かく語りき』の本のカバーをイメージすること。毎晩カバーの絵を変えてみても良い。そのカバーを見て、それから本を開き、読み始める。そして、眠りに就く。必要な情報は、わたしが眠っている間に与えられるだろう。未来においてすでに存在している本を読むことによって、この本を現実化し始めるだろうと彼らは言った。」

 

テラ・トーマスは、このガイダンスに従って作業をし始めたのですが、エゴが邪魔をしてなかなか上手く行きませんでした。そして、ある日とうとうすべてが思うように進まないので、原稿をオフィスにばらまいて、「コントロールを放棄した」のです。ところが、バラバラに落ちた原稿の束をランダムに拾い上げて並べたところ、本が完成していたのでした。

 

その時のプレアデス人の言葉がこれです。

 

「『私はコントロールを放棄します。どうやれば良いのかわたしには分かりません』といえばいうほど、より多くのエネルギーが入って来るでしょう。あなた自身が邪魔をしないようにすれば、どんどんすべてがやさしくなります。あなたがしなければならないことは、意図することだけなのです。あなたが意図すればするほど、物事はやさしくなります。」

 

さて、このエピソードについて、筆者なりの解釈をしてみたいと思います。

 

まず、このことは、「肉体を持たない存在」「霊的存在」と、人間との共同作業のやり方についての話である、ということです。

 

「肉体を持たない存在」にも人格があるので、地上にいる人間と同じ感情を持ち、同じ価値判断をしていると考えられます。地上の人間がなそうとしているプロジェクトに、インスピレーションを与えたり、人と人の出会いを設定したりして、助力を与え、事業を達成する事に、地上の人間と同じ喜びを感じている人たちなのだと思います。

 

但し、この三次元の地上世界は、人が自由意思によって魂修行をするための場所ですので、本人が望まないことをサポートする事はできません。このため、地上の人間の側で、明確に「意図」することが必要になります。「祈り」というものも、構造的には、同じことだと思います。

 

霊的な世界で、私達を助けてくれるのは、縁ある人たちです。守護霊だったり、同じグループの仲間であったり、テラ・トーマスの場合のように、宇宙人であったりします。おそらく、テラ・トーマス自身が、プレアデス人が転生した地球人であり、その意味では、彼の仲間がサポートしているということだと思います。

 

筆者の考えでは、三次元世界でのものごとの実現には、こうした目に見えない世界からのサポートもありますが、こうした、霊的な現象も含めて、本来的には、「意図」する行為が、ものごとを現象化させる原動力であると思います。

 

すでに実現したという明確なビジョンを描くことで、思いが物質化します。これは「ザ・シークレット」などで明かされた、創造の法則です。

 

「意図」というのは、単なる思いではなく、「自分の思いが契機となって宇宙の創造の力が発動する」という、能動的な思いです。そして、プレアデス人が言ったように、「全托」という姿勢と、「信頼」を通して、宇宙の創造行為に「コミットする」という思いを含みます。

 

こういう思いを出すには、「恐れ」や「欲」など、「今のままではいけない」という、エゴの雑音から開放されていなければなりません。

 

「エゴから来る情報から自由になる」事で、目に見えない世界からのインスピレーションも受けやすくなるのです。つまり、「直観が導いてくれる」ようになります。

 

目に見えない世界からのメッセージは、言葉ではなく、象徴的な出来事や、シンクロニシティや、環境全体から意味を受け取ることが多くなります。つまり、「次に何が来るのかを理解しながら」プロジェクトを遂行する、というスタイルになります。

 

このテラ・トーマスの体験談は、「肉体を持たない存在と、どのようにしてコミュニケーションをはかるか」という不思議な話ですが、もしそういうことがあるとしたら、非常に面白い話ですし、共感できます。自分の本づくりにもぜひ参考にしたいと思います。

本の値段

会社を始めてみて、一番戸惑ったことが、コストについての考え方です。私が働いていた企業は、外資系で、しかもITの仕事でしたので、コスト管理が非常に厳しく、時間に対して仕事の成果が厳しく問われました。

 

そこで暗黙の了解となっていたのは、「コストは低ければ低いほど良い」というものでした。成果物に対する生産性を最大にすることが至上命題であったからです。

 

本づくりにも、いろいろお金に絡んだ判断が必要になりますが、これまで、無意識的に「コストが低いことは良いことだ」という発想をしており、それに疑問を持たなかったことに気がつきました。

 

ところが、ある問題にぶつかり、「それではいけないのかもしれない」と思うようになりました。

 

結論から言うと、筆者がこれから拠り所としていくべきなのは、「黄金律」ではないのか、と思っています。「黄金律」とは、「自分がして欲しいように人にもしなさい。自分がして欲しくない事は人にもしてはいけない。」ということです。

 

一見、お金と全く関係ない話のように思えるかもしれませんが、実際は、物作りは生身の人間がその成果物の生産活動を担っているのですから、それは一面からみると、人の思いの集積です。

 

本の制作というのは、一冊の本を作ることで完結してはいなくて、持続的に本を作り、書店で販売し、読者にもお得意様になっていただくということです。そうすると、読者や、著者だけでなくて、イラストレーターとか、印刷会社とか、販売代行の会社とか、書店とか、関わる全ての人の固有の期待に応える必要がある、ということです。

 

逆にそういう方たちの利益を生み出さなくてはいけない。そういう方達の犠牲のもとに一部の人の利益を追求してはいけない。ということになります。

 

イラストレーターの方にどういう依頼をするか、印刷会社にどういう依頼をするか、本を何部印刷するか、どの書店に営業するか、ということを考えるに際して、全ての関係者にとって、個々に期待される利益を提供できるように、統合的に判断して、プロセスをデザインしていかなければならない。

 

少なくとも、一冊の本に関しては、編集人がその経済活動に関わる全てのプロセスをデザインできる立場にあり、また適切にデザインする事が期待されているということに気がつきました。

 

現在制作中の「音魂よ、舞い上がれ!」は、それだけではなくて、出雲が舞台なので、出雲の地方創生の関係者や、サックス愛好者の期待にも応えていく必要があると思います。

 

筆者が思うに、人間の経済活動の裏には「与え合い」つまり愛の思いが実体として伴っている必要があります。その感謝の三次元的な現れがお金であるという解釈です。

 

一般的には、顧客のニーズを満たす付加価値を、顧客と共同創造することが、お金を生むという理屈になっていますが、実際は、そこには関わる人の「感謝の念い」が介在しているはずだと思います。

 

その顧客価値は目に見えないものなので、サービスを提供する側と受け取る側が明示的に互いに何をどうすることに対して満足するのか、という合意、つまり契約が必要になります。もちろん、書店で本を買うのも契約です。潜在読者に本の情報を提供するのは、契約の申込みの誘引です。

 

本の値段は、世の中一般の値段とか、あるいは、制作にかかった費用からだけでは決まりません。弊社の場合は、書店への物流のために、販売代行会社に業務委託しなくてはならず、販売代行会社にも適正な利益を提供しなくてはなりません。書店さんにも、3割の儲けを確保してもらわなくてはいけません。

 

そうなると、値段は結構高くなるのですが、それだけに、こちらの「読書体験の提案」にコミットしていただいて、満足していただけるよう、その値段に見合った価値のある本を作らなくてはなりません。

 

「感謝の念い」が活発になればなるほど、結果としてお金の流れも活発になる。「黄金律」は、制作、購買、販売、広報宣伝、人事など、全ての活動をドライブする原理なのではないかと思います。

 

今後、心していきたいと思います。

あけましておめでとうございます。

あけましておめでとうございます。

 

2018年の新年の天皇陛下のお言葉は次の通りでした。

 

「本年が、少しでも多くの人にとり、穏やかで、心豊かな年となるよう、願っております。

年の初めにあたり、我が国と、世界の人々の、幸せを祈ります。」

 

本当にその通りだと思いました。

このことは、おそらく、プーチンも、トランプも、習近平も、皆等しく目指している世界だと思います。

筆者も地球人類の一員として、こうした優れた指導者たちと思いを一つにして、平和な未来を創造すべく、自分の立場で、自分ができることをしていきたいと思います。

 

筆者の今年のテーマは「著者と伴走し、著者の夢の実現に全力を尽くす」です。

 

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

ビジネスモデル

筆者が自分で会社を作ったのは、定年後も仕事をしていたいからで、しかも自分がやりたい仕事をさせてくれるような会社はまず世の中にはないだろうと思ったからです。

 

個人事業主つまりライターとしてではなく、法人にしたのは、ライターをやるにも、自分がテーマとしているものが、社会にはまず需要がないだろうし、それに、自分の思いの中に、クライアント的なものが混じっていると気が付いたからです。

 

どういうことかと言いますと、ライターが評価されるのは、クライアントが「こういうものを書いて欲しい」といった、そのイメージを超えるものを、驚異的なスピードで書く、という技術なのです。

 

クライアントの要件に対して、ケチをつけたり、注文をつけたりすることはできません。

 

そういうプロのライター技術を極めること自体が、自分が目指すゴールではないと思ったのです。

 

もともと自分の中に、何か啓蒙的な哲学を発信して社会的な影響力を与えたい、という思いがありました。これは物心ついた頃から、自分の中に根深くありました。

 

つまり、どうも自分の中には、どちらかというとクライアント側の意識があるような気がします。

 

なので、ちゃんと事業の理念を作って、規模は小さくてもシステマティックに活動を設計していって、その中で必要があれば自分でライターの仕事もすればいいのではないかと思ったわけです。

 

それで、とりあえず事業ビジョンとかビジネスモデルとかは漠然とした状態でしたが、まず法人を設立しました。

 

業種は出版業にしました。というのは、ざっくりいって、自分ができそうなこととしては、ライター、編集、デザイナーなどがあるのですが、やるからには、工程の一部ではなくて、全部を含めたかったのです。

 

一応、会社の事業の性格としては、出版業です。しかし、会社名は、「アセンド・ラピス」という、何をする会社かよくわからない名前にしました。

 

会社の名前に「出版」という言葉が入っていないのは、出版社は普通、一年に4冊以上の本を出すからです。それで、出版社のイメージに縛られたくなかったということがあります。

 

どういうことかと言いますと、出版業とはジャーナリズムであって、その評価の物差は、どれだけたくさんのジャンルの、多様な著名人の本を、矢継ぎ早に、大量に発行することができるか、ということなのです。

 

「出版」という名前を入れることは、この競争の中に自ら飛び込んで行くことを意味します。自分としては、みすみす負けるような競争に加わりたくはありませんでした。はじめから、そういう力はないことがわかっています。異業種から参入するのですから。少なくとも、意識の中で、年に4冊以上出すというノルマに縛られるのは、嫌でした。

 

しかし、それで事業が成り立つのか、と言われるかもしれません。

 

そもそも、本は、儲かるものではありません。しかし、一冊では儲からなくても、何度も増刷されるような、ニーズのある本を、何冊か出せれば、儲けが出るようになります。また、軽めの本であれば、電子書籍化することで、儲けを出すこともできます。

 

そういうビジネスモデルで成り立っている会社も、あることはあります。特に、業種を限らなければ、地域の課題解決をボランティアやNPOではなくてビジネスでやろうという、コミュニティビジネスの世界には、そういう「儲けるためだけに働かない」会社は、たくさんあります。むしろ、それが普通です。

 

なので、「自分たちはコミュニティビジネスなのだ」と名乗ろうと思いました。

 

コミュニティビジネスは地域の課題に関係していないとおかしい、出版社がコミュニティビジネスというべきでない、という声もあるかもしれないので、コミュニティビジネスセンターの永沢映所長にお伺いしたところ、『お金だけではない仕事』を目指しているのであれば、会社の人脈とか、人と人との繋がりで事業を始めても、コミュニティビジネスと名乗っても良い」と言って頂き、お墨付きをもらいました。

 

さて、会社のはたらきは、「商品を作ること」と、「できた商品を売ること」ですが、作る方は主に筆者が、販売はもう一人の社員が担当し、本の企画は二人で進める事になりました。

 

扱うジャンルとしては、文芸書(小説)と人文科学書です。文芸書については、筆者は編集者として関わり、人文科学書については、編集に加え、主にゴーストライターとしても関わります。

 

文芸書については、「編集・ライター養成講座」で、小学館の菅原朝也さんのノウハウを知識としては教わりましたので、それに忠実に準拠して、最初の小説の編集を進めています。

 

ものづくりというものは、核になるノウハウは、なかなか言語化しにくいもので、座学では伝承できないため、異業種から参入する場合は、普通丁稚奉公の期間が必要です。しかし、筆者の場合は年齢的にそれができません。年齢的にというのは、受け入れてくれる会社はないという事です。このため、ノウハウの部分は、これまでの経験を生かして、専門家から教室で聞いたことを、1を聞いて10を知るという方法でいくしかなく、また自分で仮説を立て体系化した原理を、実際のものづくりの中で実験して、身につけていくしかありません。

 

ただ、およそものづくりというものは、一つ作ればだいたいわかりますので、最初の一冊をじっくり時間をかけて作り上げる事が重要だと考えています。

 

文芸書については、編集者としてプロデューサー的な役割を担うのですが、人文科学書については、それに加え、ライターとしての役割も担います。

 

現在、小説の編集と並行して、ある国立大学の先生の本の企画を進めています。

 

文章を書く人の仕事の仕方は色々あると思うのですが、筆者の場合は、文章を書くためには、まず取材をして、頭の中にその問題についての一つの体系的な理解を作り上げる必要があります。

 

専門的な主題の場合、このためのインプットとしては、関係するテーマの本を少なくとも50冊くらいは、読んでおく必要があります。いわば、「にわか専門家」になるという事です。その上で、質問をつくり、インタビューをします。

 

インタビューは5回、10時間くらいは必要です。やがて、インプットについてはこれくらいでOKとなった時に、自分の脳の中でコンテンツが熟成し、一気に文章を書き始め、出力する、という形になります。

 

筆者が文章を書く場合は、基本的には、コピペはありません。筆者にとって文章を書くということは、まず頭の中に、主題に関する思いの塊ができて、それを言語化する過程だからです。言い換えると、自分の中に、「書きたい」という内容物がなければ、文章は作れません。

 

その「書きたい」という思いを作る作業が取材です。

 

不思議なもので、「書きたい」という思いが出るテーマというのは、その書き手の個性と大きく関わってきます。書き手の、いわば使命と関わるようなテーマであれば、どうしても書きたい、という思いがありますから、読む人を引き込むような良い文章が書けることになります。逆に興味関心が全く無いテーマであれば、いい文章は書けない、という事になります。

 

ですから、少なくとも筆者の場合は、企画を立てる時に、筆者自身の傾向性との相性というものを考えることが非常に重要になります。ただ、おそらく、それはライターとしては失格なのですが。

心の種子とグローバリズム

 

 

私たちアセンド・ラピスは、心の種子をつくる会社です。

 

 

・・・・

 

 

草花や野菜を育てたいと思ったら、まずホームセンターに行って、種を買ってきて、庭やプランターの土の上に撒くでしょう。そうすると、やがて芽を出し、花が咲きます。

 

私たちがつくる本も、同じように、こういう、実生活に実りをもたらす、心の種子でありたいのです。

 

つまり、それを読む事で、豊かな未来を作る心の種が撒かれ、やがて芽を出して、読者の人生に個性的な、美しい花を咲かせるような本です。

 

私たちが提供する、本当の商品は、豊かな未来です。

 

豊かな未来をつくりたいならば、アセンド・ラピスの本を読めば間違いない。そういう定評とブランドをつくりたいのです。

 

 

 ・・・・・

 

 

今、この文章を書いている筆者(編集人)は、どうしたら、そういう心の種子が作れるのか、長いあいだ考えました。そして、ひとつの結論に達したのです。

 

私たちがつくる本のコンセプトです。

 

ここで、それをご紹介させていただきたいのですが、いささか話が込み入っているため、順を追って、段階的に説明しなければなりません。

 

初めにお断りしておきます。

 

これは、かなりスピリチュアルな話です。

 

読み進めてかなり経ってから、「こんなはずじゃなかった!」と思われることがないように、初めに申し上げておきます。

 

 

 

では、まずはじめに、筆者の世界観からお話しします。 

 

というのも、筆者の世界観が世の中一般とは少し違っているので、はじめにその世界の言葉にほんの少し染まっていただかないと、主題の意味内容が正確に伝わらないと思うからです。

 

話が少し哲学っぽい部分がありますので、苦手な方は読み飛ばしていただければと思います。興味のある方は、是非、しばらくお付き合いいただければ幸いです。 

 

 

 

本が持つべき本来の機能

 

 

 

このホームページの、トップページには、以下のような言葉があります。

 

世界はあなたが心を拡げたその分だけ姿を現す。

その意味ではあなたが世界なのだ。

自分が住む世界を決める哲学はあなたが作る。

心の種子はそのためにある。

 

この言葉の中に、筆者の根本的な世界観がすべて詰まっています。

 

もう少し詩的に、イメージしやすい言葉で言うと、人は誰でも、シャボン玉に包まれてこの世に生まれてくるということです。

 

成長するにつれて、そのシャボン玉は、だんだん大きくなっていきます。でも、彼が見ることができる、あるいは知ることができる世界は、そのシャボン玉が届く範囲だけです。

 

彼の仕事は、自分のシャボン玉をできるだけ大きくしていくことです。そうすることで、やがて他人のシャボン玉も自分のシャボン玉の中に取り込み、その結果、より大きな世界を知ることができるようになります。

 

シャボン玉を大きくするということは、別の言葉で言い換えると、「意識を広げる」ということです。

 

「意識を広げる」とは、「自分」に含まれる興味関心の範囲が、小さな「自分の身体」から「自分の身体+身近な人」へ、そして「自分の身体+身近な人+社会」へ、さらに「自分の身体+身近な人+社会+地球環境全体」にまで広がっていくということです。

 

本が本来持つべき機能としては、こういうふうに「意識を広げる」ことに役立つものでなければいけないと思うのです。

 

これについて、もう少し、詳しくお話しします。

 

 

 

意識の進化の意味

 

 

 

現代人は、この「自分の意識を広げていくこと」に対して、特に自覚的でなければならないと思います。

 

それは、ここ200年くらいの科学の発達によって、現代人の意識が、デカルト的な「機械論的世界観」の中に押し込められてしまったからです。

 

「機械論的世界観」というと、難しそうですが、要するに、心と身体は別のもの、という「心身二元論」のことです。

 

身体は肉という素材でできた物質的な機械にすぎない。心は脳を通して、ちょうどSF小説でサイボーグが装着しているモビルスーツのように、肉体を操作しているのだ、というイメージです。

 

その結果、現代人の感覚では、自分の心は、自分の身体からも、他者からも、社会からも、また自然環境からも分離されてしまいました。人々は砂つぶのようにバラバラに別れた個人として、世界の中に放り出されました。

 

それに加えて、会社員として、あるいは公務員として、組織のなかで行動する場合には、組織図の上に想定された役割と権能に従って、その役割をなぞることによってしか、自己表現ができなくなっています。

 

 

私たちが、人間がバラバラの砂つぶのように思うのは、つい200年まえに考え出された、「機械論的世界観」という幻想を通して世界を体感しているからです。

 

私たちが、自分が無力な存在だと思うのは、「官僚的組織論」という幻想を通して自分の力を体感しているからです。

 

 

こうした「基本的なものの見方の枠組み」のことを「パラダイム」と言います。

 

簡単にいうと、色眼鏡のことです。

 

「機械論的世界観」も「官僚的組織論」も、我々の知覚を歪ませる色眼鏡であり、もっともらしいひとつの物語、いわば現代の神話です。

 

 

 

私たち現代人が今、住んでいるのは、こういう、とても貧しい神話の世界なのです。

 

少し前までは、日本人は、アニミズムの世界に住んでいました。そこでは、村人たちはみんな一つに繋がって生活していました。

 

ご先祖たちは森の向こう側に居て自分達を見守り、お盆のときには戻ってきてくれるし、まさかの時には夢枕に立ってもくれる存在でした。

 

日本人は、自然の精霊たちとも会話しながら、農業をして、八百万の神々とともに平和に暮らしていたのです。

 

 

ところが、デカルト的な素朴な科学志向に洗脳されて、知らぬ間に、現代人はこういう目に見えない世界を日々の暮らしから排除してきたわけです。

 

少し前までは、アニミズムというのは、時代遅れとバカにされていました。今はどちらかというと本来の人間のあり方として、戻るべきお手本として少し尊敬を回復してきた感じでしょうか。

 

いずれにせよ、もうそろそろ、お互いに人間らしいつながりを取り戻して、もっと自分の力を発揮しながら生きていきたいものだと、誰もが思うようになってきたのではないでしょうか。

 

それほどまでに、現代人は精神的に疲れ切ってしまっていると思います。

 

 

・・・・

 

 

普通の記事ですと、精神の話は、普通ここで、問題が提示されたところで、答えがなく終わってしまうのですが、筆者の記事は、その先まできちんと解説します。

 

 

 

 本当は、そこにそういう世界があるというわけではないのです。世界がもともとそういうものなのではないのです。世界がそう見えているだけなのです。それは自分が世界をそう見ているからです。

 

そういう世界の見方は、いつかどこかで、誰かから刷り込まれた、散歩の途中でたまたま拾った落ち葉のようなものにすぎません。

 

棄てようと思えば自由に捨てられるし、他のものと取り替えようと思ったら取り替えられるようなものなのです。

 

外側の何か、あるいは誰かに強大な力があると感じるとしても、それは存在しないものを存在しているかのように錯覚しているだけです。

 

その世界から抜け出た人の話を聞けば、同じようにその世界から抜け出ることができるようになります。

 

哲学や思想の本来の役割とは、そこにこそあるのだと筆者は考えています。

 

本を読むことの意義は、こういう、読者の根本的な認識のパラダイムの変化にあります。 

 

 

 

意識を広げてくれるスピリチュアルな世界観

 

 

 

そうした根本的な意識の変化をもたらす世界認識のパラダイムとして、スピリチュアルな視点を取り入れることが必要であると筆者は考えています。

 

最新の科学の世界でも、量子力学は目に見えない次元の存在を明らかにしています。科学の世界では、目に見えない世界は当然の前提になっています。

 

ニュートン力学の世界観だけでは、充分な世界認識はできないということです。それは、目に見える世界のことしか語っていないからです。

 

量子力学の考えでも、スピリチュアルの考えでも、「見るものが現れる」とされています。

 

もう一度言います。

 

「あるものが見える」のではなくて、「見るものが現れる」のです。

 

少なくとも、極小の世界はそういう世界であり、常にそういう不思議なことが起きているということなのです。固いと思われる物体も、ほぼスカスカの虚空であり、物質の素材である素粒子もエネルギーの渦に過ぎないのです。

 

どういうことでしょうか。

 

ニュートンやデカルトの時代の「機械的世界観」を「使って」世界を見たならば、外の世界にある物によって、物質的な因果関係で全てが支配されるような体験が、目の前に立ち現れてくるでしょう。

 

「目に見える世界の後ろに目に見えないエネルギーの世界がある」という量子力学的な世界観を「使って」世界を見たならば、思いの力で原因の世界に「働きかけ」て自由自在に物質の世界を動かす事ができるような体験が、目の前に立ち現れてくるでしょう。

 

「見るものが現れる」からです。

 

世界観というものは、自分が選択して「使いこなす」べきものです。

 

おそらく、人類の時代精神のようなものがあり、それが科学の世界で現れてきたものが量子力学であり、哲学の世界に現れてきたものがスピリチュアルな神話であると考えます。両者は同じものの別の側面なのです。

 

 

・・・・

 

 

スピリチュアルな世界観を取り込む時に、それが正しいかどうかの判断は不要です。人間には、自分にとって「本当らしい物語」以上のものは必要ないからです。

 

例えば、大森荘蔵という哲学者は、科学は「生活体験に重ね描きされた細密画」であり、一つの神話に過ぎないことを喝破しました。

 

科学は所詮、細密画でしかないのです。

 

科学者が仮説として示した細密画に目をくらまされ、自分の直感を無視するのは、もうそろそろやめるべきです。それが自分を取り戻すということです。

 

自分が「本当らしい物語」として、その物語に共感したならば、その新しい情報を、自分の人生を彩る背景画として取り込めば良いのです。

 

そうすれば、その新しい情報は、自分自身や世界を眺める際の補助線として自動的に働くようになります。

 

 

・・・・

 

 

スピリチュアルな物語のうち、筆者が特に重要であると考えている内容は、具体的には、以下のようなことです。

 

人は神である。

肉体は滅びても魂は滅びず、永遠の輪廻転生の中で生きつづける。

地上は進化のための学校である。

地上の人生のシナリオは自分が書いてくる。

愛と慈悲の実践が大切である。

 

これらは伝統宗教でも語られており、「言われるとそうかもしれない」とは思うのですが、科学の色眼鏡をかけた現代人は素朴に信じることができません。

 

もちろん、証明はできない事なのですが、話を先に進める前に、筆者なりに、それぞれの主題について、現在のスピリチュアルの世界での通説的な内容を少し解説させていただきたいと思います。

 

実はスピリチュアルな情報の解説は、筆者がずっと取り組んできた仕事であり、これからも本の編集作業の思想的な基盤になるものとして続けていこうと思っていることです。

 

スピリチュアルな世界観の理解に興味の無い方は、以下の数節は読み飛ばしていただければと思います。

 

でも、おそらくここまでわかりやすく解説した文章は他にあまり無いはずだと思います。

 

 

人が神の子であるとは

 

 

スピリチュアルな世界観では、「自分」の定義として、自分とは「神の子」である、という理解を出発点とします。

 

もちろん、それは地上の人間は証明ができませんから、「ほんとうらしい物語」として作られたひとつの仮説です。

 

 

まず、「神」という言葉について、少し説明します。

 

神という言葉には、三つの意味があります。

 

 一つめは、この大宇宙を創造した源という意味の神、根源神です。英語では大文字のGODです。根源神には人格がありません。人間が理解できる概念としては、愛のエネルギーとか、愛の摂理という言葉で表現する事ができます。

 

二つめは、根源神が姿を持って現れた人格神です。神近き高級霊で、キリスト教でいう、父なる神がそれです。

 

もう一つの神は、様々な霊格の、縁ある人格神で、キリスト教では聖霊に当たる存在です。日本でいう八百万の神もこの意味での神です。地上の人間が交流できるのはこの意味での神様です。

 

人間が「神の子」である、という時の「神」というのは、第一の「根源神」としての神のことです。

 

そして、神の「子」である、というのは、根源神が無数の人間の魂として個性化して分かれた、そのひとつが、自分の魂の中核をなしている、という意味です。

 

 

普段、私たちは、肉体の五感の感覚を基に、自分の存在を実感しています。これを顕在意識といいます。

 

ところが、この世の肉体に関係した部分だけではなく、この世を超えた領域にも、いわば時間空間をはみ出して、自分の延長が存在しているのです。顕在意識では認識できなくても、意識を超えた領域にも自分は存在しています。

 

その中心的な、核の部分を真我、またはハイアーセルフと呼びます。この真我が、過去や未来も含めた、自分の存在の全体を統括しているという意味で、本来の自分であると言えます。

 

そして、この真我は、神のひとつのピースを構成しています。つまり、宇宙を創造した根源神というのは、実は、無数の我々の真我の集まり、集合意識であるのです。

 

 

・・・・

 

 

わけが分からなくなってきたでしょうか。

 

でも、これが、現在のスピリチュアルの世界では通説なのです。

 

 

言い換えると、人間が「神の子」である、という言葉には、自分は根源神の一部であり、それゆえ人格を超えた部分があるという理解が含まれます。

 

自分の中核部分には、愛の「エネルギー」、あるいは、愛の「摂理」ともいうべき、人格を超えた、全宇宙と不可分一体の「何か」があるということです。その自覚が「神の子」ということです。

 

根源神は、この宇宙の万物を創造したエネルギーですから、 完全であり無限です。

 

「神の子」私たち人間も根源神のかけらが埋め込まれていることから、私たち自身も完全であり、無限であるということになります。

 

このことを、心の深いところで確信できれば、源の創造のエネルギーを使いこなすことができるようになります。

 

「からし種一粒ほどの信仰」があれば、思いの力で宇宙が動くのです。

 

このように、自分の中核部分が愛の「エネルギー」なら、自分の本籍地は、三次元の物質世界にはなくて、目に見えない霊の世界にあるという理解は当然のこととなります。

 

そして、「愛」である真我が、霊の世界と物質の世界を行ったり来たりしながら、「愛」としての自分を体験し、その理解を深めているというのが、「自分とは何か」についての、スピリチュアルの立場からのひとつの定義になります。

 

注目すべきは、形のある三次元の物質世界では、自他の区別があるのですが、その中核部分になると、もはや自他の区別は意味をなさないという事です。

 

そして、人間だけでなく、動物も、植物も、鉱物も、全てがこの一つの源が現れ出たものです。ですから、源神の世界まで来ると、全ては一つであり、繋がっているということです。

 

スピリチュアルでは、このことを「ワンネス」と呼んでいます。

 

 

人生の意味

 

 

以上が、全ては源とひとつであること、そして、自分は根源神と同じものであるという説明です。

 

ですから、「人は神」なのです。

 

繰り返しますが、この説明はひとつの比喩であり、現代人にも受け入れることができる「本当らしい物語」(神話)の一つにすぎません。

 

私はこの世界観が正しく、ほかの世界観が間違っていると主張しようとして、この話をしているのではありません。

 

あくまでアセンド・ラピスの本作りのコンセプトを説明しようとして、その根が思想的に深いところにあり、またその話が込み入っているため、段階的に説明をしています。

 

長くなりますが、もうしばらくお付き合いいただけると幸いです。

 

 

さて、私たちは、今、マテリアル(物質)の世界、目に見える現象の世界の中に住んでいますが、実は目に見えない世界にこそ、自分の本籍地があるということになります。

 

では、私たちは今なぜ、目に見える三次元の物質世界にいるのか、その理由は何であり、どういう目的でこの世に生まれてきたのか、という疑問が出ます。

 

この問いは、すべての哲学者にとって本質的な問いであり、謎です。

 

考えてみると、すべての人が、物心ついたころ、思春期に恋愛の問題で悩み始めるころ、同じくこの問いに出会います。

 

自分とは何者なのか?

 

なぜ今ここにいるのか?

 

なぜ生きることはこんなに苦しいのか?

 

この問いの答えは、学校では教えてくれません。

 

この問いになんとか答えようとしているのが、宗教の教祖であり、スピリチュアルの教師たちです。

 

しかし、宗教やスピリチュアルのことを真剣に考える人は少ないでしょう。

 

ですから、ほとんどの人は、「人生の目的」を、「この世的な価値観」から「望ましいとされていること」を達成することだと考えています。

 

その結果、「自分自身の物差し」で生きることを忘れてしまいます。

 

それは、人生の喜びや満足を自分で自分から遠ざけてしまっているということです。

 

 

自分の人生を自分自身に取り戻すためには、「この地上世界は、魂が体験を積むために設えられた舞台である」という視点がどうしても必要です。

 

私たちは、具体的な形を通してしか体験ができず、体験がなければ経験を通して物事を学ぶことができません。このため、マテリアルの肉体と、マテリアルの地球が「人間のために」用意されているのです。

 

この地上は、学芸会の舞台で役を演じているようなものだ、というわけです。

 

 

そして、最も重要な理解は、この転生を計画し、シナリオを書いているのが、ほかならない自分自身である、ということです。

 

自分の人生計画は、自分自身が設計したわけですから、目的ははっきりしています。その事は、あの世に帰ればすべてわかるようになっています。

 

言い換えると、私たちの人生には、必ず、自分の個性に応じた具体的なテーマ、そして、過去世のカルマに関連する課題と目標があるのです。

 

ですから、「自分の魂が成長するための課題は何なのか」を推し量り、自分自身のテーマを全うすることに、生きる意味を求めなければならないのです。

 

「この世的な価値観」で「望ましいとされていること」を達成することを人生の目的にしてはいけないのです。

 

地上に出た顕在意識では、こうした事情はわかりませんが、自分の性格や家庭環境、起きてくることなどをよく観察すれば、何が今世の自分のテーマであったのか、課題は何なのかが推測できるはずです。

 

そうして、自分自身の独自のテーマを生きると腹をくくり、覚悟を決めた時に初めて、世の中の「価値観の呪縛」から解放されるのです。

 

世間的な価値観に縛られ、他人の物差しに合わない自分を否定している時には、恐れがあります。

 

恐れがある時には、もともといた愛の世界から迷い出てしまっています。

 

・・・・

 

先ほど、根源の神は愛のエネルギーであると言いました。

 

エネルギーであるということは、エネルギーなのです。

 

愛はファンタジーの世界にあるものではなくて、現実の世界で働くれっきとした物理的な力なのです。

 

私たちの意識が「愛」の世界に同調した時に、神の創造のエネルギーを使うことができるようになります。

 

これまで筆者が長々と意識の話をしてきたのは、この原理を語りたかったからなのです。

 

「愛の力」を知ることが今起きつつある地球の変化を理解する要諦です。

 

自分の人生を生きる事が大切であるゆえんです。

 

 

 

人生の究極のテーマは愛である

 

 

ある人が「自分自身のテーマを生きる覚悟を決めた」とします。

 

そのテーマの実現に必要なものは、何だと思いますか?

 

お金でしょうか。

 

学歴でしょうか。

 

コネでしょうか。

 

いいえ、違います。

 

それは、「愛」です。

 

 

これは、決して道徳の観点から言っているのではないのです。

 

スピリチュアル的な、精神科学的な原則がそうなっているのです。

 

これまでの世界観では、愛は精神的なもので、人生の創造とはなんら関係がなかったのです。

 

ところが、スピリチュアルな世界観では、愛はエネルギーであり、人生の創造をドライブする鍵なのです。

 

人生とは、他者や、社会や、地球環境に対する絶え間ない働きかけです。

 

そういう、人の創造活動自体が愛であると認識され、評価される時代に、地球が変わりつつあるということです。

 

・・・・

 

デヴィッド・ホーキンス博士が「パワーか、フォースか」という本の中で、「意識のマップ」を使って、恐れと愛の違いについて、わかりやすく説明していますので、ご紹介します。

 

「意識のマップ」では、思いの波動レベルを、相対的な数値で示しています。ブッダやキリストのような最高レベルを1000とします。

 

ホーキンス博士によると、エゴの臨界点が200です。200以下は恐れ、200以上が愛の領域です。「受容(赦し)」は350、「(無条件の)愛」は500、「平和」は600です。

 

200以下のレベルの意識では、物質的な因果関係を力づくで作りだそうとします。この力を「フォース」と呼びます。

 

これに対して、200以上のレベルの意識では、目に見えない、原因の世界に関係した高いエネルギーのアトラクターフィールドに働きかけ、宇宙の叡智を活用して物事を成し遂げる事ができます。この力を「パワー」と呼びます。

 

簡単にいうと、「フォース」はエゴの力、「パワー」は愛の力です。

 

 

つまり、こういうことです。

 

私たちの肉体は、共通の、ひとつの地球の上に住んでいるのですが、私達の意識は、二つの階層または次元に別れて、別々の地球に住んでいるということです。

 

一つは、愛の世界。

 

もう一つは、エゴの世界。愛のない世界です。

 

愛の世界に住んでいる人は、恐れがありません。そして、宇宙の叡智を活用して物事を楽に成し遂げる事ができます。彼にとって生きるとは、他人のために、自分が神から与えられた使命を果たすことです。

 

愛のない、恐れの世界に住んでいる人は、たえず外の世界に働きかけ、他人を支配し、他人から富や価値を奪わなければ、生きていく事ができません。彼にとって生きるとは、自分の肉体の安全を確保し生きのこることです。 

 

スピリチュアル的には、前者の意識を「統合意識」、愛と平和の波動に満ちた次元の地球を「第四密度」といいます。これに対し、後者の意識を「分離意識」と呼び、争いの波動に満ちた次元の地球を「第三密度」と言います。

 

地球のアセンションとは、人類の波動が、第三密度から第四密度に上昇するということです。それは一言で言えば、全ての人が、愛の力によって、本当の自己実現をしている世界のことです。

 

 

低レベルの波動が引き起こす社会の軋み

 

 

こう考えると、現在全地球的な規模で起きている、グローバリズムの進展による社会の軋みは、スピリチュアリティを前提として考えないと、根本的に解決がつかないということがわかります。

 

どういうことかというと、現在の地球の問題は、価値観の違いから起きているのでは「ない」ということです。

 

人類の魂の「未熟さ」から起きているということです。

 

価値観の問題にすり替えることを許してはならないのです。

 

「愛の世界」では、多様な価値観が調和して共存します。「愛のない世界」にいるからこそ、価値観の衝突が起きるのです。

 

(多様な価値観を認めない)不寛容な価値観を寛容に認めて、地球が愛のある世界になるわけはありません。

 

人類の「魂の未熟さ」を考慮に入れなければなりません。

 

愛であることが、一人一人が自分の使命を果たすために必要だから、愛の温度を上げていかなくてはならない、ただそれだけです。

 

あくまで、一人一人が、自分の人生のテーマを全うするために「愛の力」を使いこなすべきなのです。結果として、寛容な社会が生まれるのです。

 

「自分のため」というのは、「愛の力」が使える意識の波動レベルにある人にとって、「自分」の領域は、社会や地球環境にまで広がっているからです。

 

「愛の力」を使うにはどうすればいいのでしょうか。

 

筆者の考えでは、先に述べたように自分が根源神と同じ「神の子」であるということを理解し、他者や社会や地球環境へ興味関心を広げて、愛と慈悲を動機として行動すれば良いのです。

 

Googleでは、社内教育で、仏教の「慈悲の瞑想」を取り入れているそうですが、スピリチュアリティをビジネスに活用する取り組みはこれから欠かせないものになっていくのだろうと思います。

 

「愛の力」の本質的な重要性を理解できず、エネルギーとして活用できない企業は、新しい地球ではもはや生き残ってはいけないはずです。

 

グローバリズムによる社会の軋みと言っても、グローバル企業に勤務している社員が「魂の未熟なグローバリスト」だと言いたいわけではありません。

 

そういうレッテルづけは、ヘイトスピーチの類で何の意味もありません。

 

グローバル企業で働いている人に悪意はありません。それは、私自身が、グローバル企業の中にいたのでよくわかります。

 

その企業を率いているマネジメントにも、悪をなそうと考えているものは一人もいません。ほとんどの人は、自分のなすべき使命を命がけで全うしようとしているだけです。

 

グローバリズムの戦略は、大企業を株式で支配している金融資本家によってなされているといいます。

 

しかし、その戦略を立てて、推進している人自身も、このようなことはわかっていないはずなのです。

 

本人は、本気で、人類の為に、おそらくは、神のために奉仕していると信じて行動しているに違いないのです。

 

ですから、どこにも悪人はいないのです。

 

ですが、およそエゴの世界に住んでいる人に欠けているものは、「愛の力」を使う能力です。

 

他人の痛みを自分の痛みと感じる能力を封印して、「エゴの力」を使わざるを得ないのです。

 

ですから、恐れの次元で活動している会社や人々は、そうした「魂の未熟さ」を考慮に入れて、赦さなければなりません。

 

私たち自身も魂は未熟なのです。

 

 

「フォース」によって三次元の世界を変化させようとする人たちがいます。

 

でも、私たちは、彼等と同じ土俵で戦うことはすべきではないと思います。

 

そうすれば、「フォース」の世界に落ちてしまうからです。

 

まず私たち自身が、「愛の力」を使えるようになって、より良い世界を作るために、自分自身の使命を果たそうではありませんか。

 

愛の世界にふさわしく、謙虚に、楽しく、自分の本来の使命を全うすることです。 

 

 

アセンド・ラピスが提供する心の種子

 

 

さて、ようやく私たちが作りたい心の種子のイメージが明らかになってきました。

 

今地球に必要な「心の種子」とは、こうした「愛の力」で社会を作り変えようとする、次世代の地球人たちのハートを開くために役に立つ、スピリチュアルなエネルギーを含む、社会の課題解決に関わる情報です。

 

つまり、具体的な条件を挙げるなら、まず、社会の課題解決に役立つものでなければなりません。

 

そして、読者を欲望の経済に向かわせるのではなく、愛の経済の方向に力を与えるような、スピリチュアルなエネルギーを含むものでなくてはなりません。

 

扱うべきテーマとしては、環境、科学、経営、芸術など、広範囲にわたると思います。また、直接的に社会の課題解決に役立つことはなくとも、読者を健全で良質なスピリチュアルの世界に誘い、豊かな精神性を涵養してくれる文芸も付随的に必要だと思います。

 

また、「心の種子」には、明るく豊かな地球の未来のビジョンが含まれていなければなりません。そうすれば、種子は自然に芽吹いて、やがて地球に豊かな実りをもたらすことになると思います。

 

「小さな出版社」の記事でモデルとして対比した、営利目的での本づくりの場合は、暗黙的に「会社として儲けること」「著者として有名になること」という動機が優先されるため、こういうチェックがされる保証は必ずしもありません。

 

これに対して、私たちは、コミュニティビジネス的なビジネスモデルを採用しています。もちろん、できる限り、売れる本を作りたいと思いますし、そのために努力することが製作者自身の学びの課題にもなると思っていますが、それ以上に、こうした、事業の公共性の部分にこだわることをより重視したいと考えています。

 

公共性をより重視した本づくりとは、ちょうど、植物の種でいうと、固定種に特化した種屋さんのようなものだと思っています。より自然に近い、強い個性とエネルギーを持つ、地域に根ざした固有の種子の遺伝子をそのまま生かし、自家採種や家庭菜園のために使っていただくことです。

 

固定種の種は、他の固定種と掛け合わせて、F1(一代雑種)を生み出すためにも使われます。つまり、営利目的の商業出版に対立するという理念ではなく、商業出版の原種としても使ってもらえるような、高品質の心の種子を作りたい、ということです。

 

幸い、最初の協力者となってくださる著者の方が二人ほど現れ、現在その方達の本の編集を始めています。その本を商品にして、販売を始めることが、目下の課題です。次の課題は、そうした固定種のような、貴重な「心の育種家種子」をお持ちの、私たちと世界観が似た著者の方をどうやって探していくかという事です。ただそれはもう少し先の仕事になると思います。

 

まだなんの実績もないのに、いささか大言壮語にすぎる夢を語ってしまいました。会社の立ち上げに際して、一つの軸を作って思いを固めるためには理念を突き詰めることも必要であるということで、寛大にお許しいただければと思います。

 

長文におつきあいいただき、ありがとうございました。

小さな出版社

私たちは、小さな出版社です。

 

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なぜ小さい出版社なのかというと、まず、自分たちが作りたい本しか作らないと決めているからです。

 

それから、もちろん、自分たちができる規模のことしかできないから、でもあります。

 

自分たちにできることは、本作りです。

 

でも人も時間も限られています。もちろん能力も。

 

ですから、普通の出版社のようには、機敏に動けません。

 

普通の出版社というのは、たくさんの本を矢継ぎ早に出すことができる、体力のある「小さくない」出版社のことです。


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日本の出版業界では、本は値引販売をしません。書店は、本を買取らなくてもよいし、売れなければ返品すれば良いことになっています。

 

これは、再販制と委託制といって、「取次」が支えるシステムです。

 

このシステムの下では、出版社は、次々と新しい本を市場に出すことによって、書籍を貨幣のように回転させることでキャッシュフローを維持しなければなりません。

 

そのためには、大きな資金とたくさんの編集者が必要になります。

 

言葉を変えると、「売るため」に本を作らなければならなくなっているのですが、そのためには、より多くの読者に「売れる」ような本をつくる必要があります。

 

そのためには不安感とか、優越感とか、より低級な欲望にアピールするように読者を少しくらい操作してもやむおえないと考えているふしもあります。

 

もちろん、そういう出版社はごく一部でしょうし、表現の自由が保障されていますので、それはそれで全然構わないことではあるのですが。


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これに対して、売るために企画した本ではない、作りたい本だけをこだわって作る、小さな出版社を始める人も出てきました。

 

いわば出版事業のレジスタンス運動家です。ただ、本は儲かる商売ではないため、兼業をしなければ商売を維持していくことができないことは事実のようです。

 

とはいえ、そうした「小さな出版社」を作るのは、出版の業界で長年編集の仕事をしていたような人に限られています。


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これに対して、筆者のバックボーンは、システム屋です。

 

長年、外資系のIT企業で、基幹業務のアプリケーション(基幹システム)を作ってきました。

 

アプリケーションのデザインについては、自信があります。

 

でも、出版業については、素人です。

 

しかし、書籍のコンテンツ開発も、ものづくりと言う点ではアプリケーションの開発と変わないはずだと思っています。

 

実際、今、最初の本を作っているのですが、本を作る作業は、システムを作るのと同じくらい、楽しいです。


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本において、アプリケーションのユーザー機能に相当するものは、読者による読書体験です。

 

デザイン思考でコンセプトとデザインを作り、機能要件を明確に定義し、アジャイルでプロトタイプを作り、必要な機能が実装されていることをテストを繰り返して検証します。

 

小説の場合は作家がデザイナー兼プログラマー、編集者がプロダクトマネージャーになります。

 

システムの場合は、一旦コーディングが出来上がってしまってからデザインを大幅に変えるのはほぼ不可能ですが、小説の場合は自由自在です(!)

 

とはいえ、本を作るのにも、システムを作るのと同じくらい、時間がかかります。


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一冊の本を、読書体験をもたらすアプリケーションであると考えると、機能改善のために読者の声を取り入れて何度も改訂を繰り返し、長く販売しつづけるようなものを作る必要があります。

 

また、一冊の本を出すという、ひとつのプロジェクトだけに注目するのではなくて、著者の一連のコンテンツ発信で社会にどのような影響をもたらしたいかと言う観点でのプログラム全体の設計も必要になります。

 

著者の世界観に共感して、著者の活動にコミットすることは当然の前提です。

 
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会社の業務は、少数の基幹システムがあれば、回って行きます。

 

大企業を支える基幹システムを作るためには莫大なコストがかかりますが、幸いなことに、本を作るときは、コンテンツのスケールがどんなものであれ、かかるコストに差はありません。

 

私たちは、人も時間も限られているので、少数の基幹システムに相当する本を作ることにしか興味がありませんし、そういう本を作っていきたいのです。

 
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上に書いたような内容を踏まえて、「小さな出版社」のビジネスモデルのイメージ図を描いてみたのが、以下の図です。

 

 

これから、システム屋の本づくりについて、このブログで報告してしていきたいと思います。


更新は不定期になると思いますが、どうぞよろしくお願いします。

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