心の種子とグローバリズム

 

 

私たちアセンド・ラピスは、心の種子をつくる会社です。

 

 

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草花や野菜を育てたいと思ったら、まずホームセンターに行って、種を買ってきて、庭やプランターの土の上に撒くでしょう。そうすると、やがて芽を出し、花が咲きます。

 

私たちがつくる本も、同じように、こういう、実生活に実りをもたらす、心の種子でありたいのです。

 

つまり、それを読む事で、豊かな未来を作る心の種が撒かれ、やがて芽を出して、読者の人生に個性的な、美しい花を咲かせるような本です。

 

私たちが提供する、本当の商品は、豊かな未来です。

 

豊かな未来をつくりたいならば、アセンド・ラピスの本を読めば間違いない。そういう定評とブランドをつくりたいのです。

 

 

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今、この文章を書いている筆者(編集人)は、どうしたら、そういう心の種子が作れるのか、長いあいだ考えました。そして、ひとつの結論に達したのです。

 

私たちがつくる本のコンセプトです。

 

ここで、それをご紹介させていただきたいのですが、いささか話が込み入っているため、順を追って、段階的に説明しなければなりません。

 

初めにお断りしておきます。

 

これは、かなりスピリチュアルな話です。

 

読み進めてかなり経ってから、「こんなはずじゃなかった!」と思われることがないように、初めに申し上げておきます。

 

 

 

では、まずはじめに、筆者の世界観からお話しします。 

 

というのも、筆者の世界観が世の中一般とは少し違っているので、はじめにその世界の言葉にほんの少し染まっていただかないと、主題の意味内容が正確に伝わらないと思うからです。

 

話が少し哲学っぽい部分がありますので、苦手な方は読み飛ばしていただければと思います。興味のある方は、是非、しばらくお付き合いいただければ幸いです。 

 

 

 

本が持つべき本来の機能

 

 

 

このホームページの、トップページには、以下のような言葉があります。

 

世界はあなたが心を拡げたその分だけ姿を現す。

その意味ではあなたが世界なのだ。

自分が住む世界を決める哲学はあなたが作る。

心の種子はそのためにある。

 

この言葉の中に、筆者の根本的な世界観がすべて詰まっています。

 

もう少し詩的に、イメージしやすい言葉で言うと、人は誰でも、シャボン玉に包まれてこの世に生まれてくるということです。

 

成長するにつれて、そのシャボン玉は、だんだん大きくなっていきます。でも、彼が見ることができる、あるいは知ることができる世界は、そのシャボン玉が届く範囲だけです。

 

彼の仕事は、自分のシャボン玉をできるだけ大きくしていくことです。そうすることで、やがて他人のシャボン玉も自分のシャボン玉の中に取り込み、その結果、より大きな世界を知ることができるようになります。

 

シャボン玉を大きくするということは、別の言葉で言い換えると、「意識を広げる」ということです。

 

「意識を広げる」とは、「自分」に含まれる興味関心の範囲が、小さな「自分の身体」から「自分の身体+身近な人」へ、そして「自分の身体+身近な人+社会」へ、さらに「自分の身体+身近な人+社会+地球環境全体」にまで広がっていくということです。

 

本が本来持つべき機能としては、こういうふうに「意識を広げる」ことに役立つものでなければいけないと思うのです。

 

これについて、もう少し、詳しくお話しします。

 

 

 

意識の進化の意味

 

 

 

現代人は、この「自分の意識を広げていくこと」に対して、特に自覚的でなければならないと思います。

 

それは、ここ200年くらいの科学の発達によって、現代人の意識が、デカルト的な「機械論的世界観」の中に押し込められてしまったからです。

 

「機械論的世界観」というと、難しそうですが、要するに、心と身体は別のもの、という「心身二元論」のことです。

 

身体は肉という素材でできた物質的な機械にすぎない。心は脳を通して、ちょうどSF小説でサイボーグが装着しているモビルスーツのように、肉体を操作しているのだ、というイメージです。

 

その結果、現代人の感覚では、自分の心は、自分の身体からも、他者からも、社会からも、また自然環境からも分離されてしまいました。人々は砂つぶのようにバラバラに別れた個人として、世界の中に放り出されました。

 

それに加えて、会社員として、あるいは公務員として、組織のなかで行動する場合には、組織図の上に想定された役割と権能に従って、その役割をなぞることによってしか、自己表現ができなくなっています。

 

 

私たちが、人間がバラバラの砂つぶのように思うのは、つい200年まえに考え出された、「機械論的世界観」という幻想を通して世界を体感しているからです。

 

私たちが、自分が無力な存在だと思うのは、「官僚的組織論」という幻想を通して自分の力を体感しているからです。

 

 

こうした「基本的なものの見方の枠組み」のことを「パラダイム」と言います。

 

簡単にいうと、色眼鏡のことです。

 

「機械論的世界観」も「官僚的組織論」も、我々の知覚を歪ませる色眼鏡であり、もっともらしいひとつの物語、いわば現代の神話です。

 

 

 

私たち現代人が今、住んでいるのは、こういう、とても貧しい神話の世界なのです。

 

少し前までは、日本人は、アニミズムの世界に住んでいました。そこでは、村人たちはみんな一つに繋がって生活していました。

 

ご先祖たちは森の向こう側に居て自分達を見守り、お盆のときには戻ってきてくれるし、まさかの時には夢枕に立ってもくれる存在でした。

 

日本人は、自然の精霊たちとも会話しながら、農業をして、八百万の神々とともに平和に暮らしていたのです。

 

 

ところが、デカルト的な素朴な科学志向に洗脳されて、知らぬ間に、現代人はこういう目に見えない世界を日々の暮らしから排除してきたわけです。

 

少し前までは、アニミズムというのは、時代遅れとバカにされていました。今はどちらかというと本来の人間のあり方として、戻るべきお手本として少し尊敬を回復してきた感じでしょうか。

 

いずれにせよ、もうそろそろ、お互いに人間らしいつながりを取り戻して、もっと自分の力を発揮しながら生きていきたいものだと、誰もが思うようになってきたのではないでしょうか。

 

それほどまでに、現代人は精神的に疲れ切ってしまっていると思います。

 

 

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普通の記事ですと、精神の話は、普通ここで、問題が提示されたところで、答えがなく終わってしまうのですが、筆者の記事は、その先まできちんと解説します。

 

 

 

 本当は、そこにそういう世界があるというわけではないのです。世界がもともとそういうものなのではないのです。世界がそう見えているだけなのです。それは自分が世界をそう見ているからです。

 

そういう世界の見方は、いつかどこかで、誰かから刷り込まれた、散歩の途中でたまたま拾った落ち葉のようなものにすぎません。

 

棄てようと思えば自由に捨てられるし、他のものと取り替えようと思ったら取り替えられるようなものなのです。

 

外側の何か、あるいは誰かに強大な力があると感じるとしても、それは存在しないものを存在しているかのように錯覚しているだけです。

 

その世界から抜け出た人の話を聞けば、同じようにその世界から抜け出ることができるようになります。

 

哲学や思想の本来の役割とは、そこにこそあるのだと筆者は考えています。

 

本を読むことの意義は、こういう、読者の根本的な認識のパラダイムの変化にあります。 

 

 

 

意識を広げてくれるスピリチュアルな世界観

 

 

 

そうした根本的な意識の変化をもたらす世界認識のパラダイムとして、スピリチュアルな視点を取り入れることが必要であると筆者は考えています。

 

最新の科学の世界でも、量子力学は目に見えない次元の存在を明らかにしています。科学の世界では、目に見えない世界は当然の前提になっています。

 

ニュートン力学の世界観だけでは、充分な世界認識はできないということです。それは、目に見える世界のことしか語っていないからです。

 

量子力学の考えでも、スピリチュアルの考えでも、「見るものが現れる」とされています。

 

もう一度言います。

 

「あるものが見える」のではなくて、「見るものが現れる」のです。

 

少なくとも、極小の世界はそういう世界であり、常にそういう不思議なことが起きているということなのです。固いと思われる物体も、ほぼスカスカの虚空であり、物質の素材である素粒子もエネルギーの渦に過ぎないのです。

 

どういうことでしょうか。

 

ニュートンやデカルトの時代の「機械的世界観」を「使って」世界を見たならば、外の世界にある物によって、物質的な因果関係で全てが支配されるような体験が、目の前に立ち現れてくるでしょう。

 

「目に見える世界の後ろに目に見えないエネルギーの世界がある」という量子力学的な世界観を「使って」世界を見たならば、思いの力で原因の世界に「働きかけ」て自由自在に物質の世界を動かす事ができるような体験が、目の前に立ち現れてくるでしょう。

 

「見るものが現れる」からです。

 

世界観というものは、自分が選択して「使いこなす」べきものです。

 

おそらく、人類の時代精神のようなものがあり、それが科学の世界で現れてきたものが量子力学であり、哲学の世界に現れてきたものがスピリチュアルな神話であると考えます。両者は同じものの別の側面なのです。

 

 

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スピリチュアルな世界観を取り込む時に、それが正しいかどうかの判断は不要です。人間には、自分にとって「本当らしい物語」以上のものは必要ないからです。

 

例えば、大森荘蔵という哲学者は、科学は「生活体験に重ね描きされた細密画」であり、一つの神話に過ぎないことを喝破しました。

 

科学は所詮、細密画でしかないのです。

 

科学者が仮説として示した細密画に目をくらまされ、自分の直感を無視するのは、もうそろそろやめるべきです。それが自分を取り戻すということです。

 

自分が「本当らしい物語」として、その物語に共感したならば、その新しい情報を、自分の人生を彩る背景画として取り込めば良いのです。

 

そうすれば、その新しい情報は、自分自身や世界を眺める際の補助線として自動的に働くようになります。

 

 

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スピリチュアルな物語のうち、筆者が特に重要であると考えている内容は、具体的には、以下のようなことです。

 

人は神である。

肉体は滅びても魂は滅びず、永遠の輪廻転生の中で生きつづける。

地上は進化のための学校である。

地上の人生のシナリオは自分が書いてくる。

愛と慈悲の実践が大切である。

 

これらは伝統宗教でも語られており、「言われるとそうかもしれない」とは思うのですが、科学の色眼鏡をかけた現代人は素朴に信じることができません。

 

もちろん、証明はできない事なのですが、話を先に進める前に、筆者なりに、それぞれの主題について、現在のスピリチュアルの世界での通説的な内容を少し解説させていただきたいと思います。

 

実はスピリチュアルな情報の解説は、筆者がずっと取り組んできた仕事であり、これからも本の編集作業の思想的な基盤になるものとして続けていこうと思っていることです。

 

スピリチュアルな世界観の理解に興味の無い方は、以下の数節は読み飛ばしていただければと思います。

 

でも、おそらくここまでわかりやすく解説した文章は他にあまり無いはずだと思います。

 

 

人が神の子であるとは

 

 

スピリチュアルな世界観では、「自分」の定義として、自分とは「神の子」である、という理解を出発点とします。

 

もちろん、それは地上の人間は証明ができませんから、「ほんとうらしい物語」として作られたひとつの仮説です。

 

 

まず、「神」という言葉について、少し説明します。

 

神という言葉には、三つの意味があります。

 

 一つめは、この大宇宙を創造した源という意味の神、根源神です。英語では大文字のGODです。根源神には人格がありません。人間が理解できる概念としては、愛のエネルギーとか、愛の摂理という言葉で表現する事ができます。

 

二つめは、根源神が姿を持って現れた人格神です。神近き高級霊で、キリスト教でいう、父なる神がそれです。

 

もう一つの神は、様々な霊格の、縁ある人格神で、キリスト教では聖霊に当たる存在です。日本でいう八百万の神もこの意味での神です。地上の人間が交流できるのはこの意味での神様です。

 

人間が「神の子」である、という時の「神」というのは、第一の「根源神」としての神のことです。

 

そして、神の「子」である、というのは、根源神が無数の人間の魂として個性化して分かれた、そのひとつが、自分の魂の中核をなしている、という意味です。

 

 

普段、私たちは、肉体の五感の感覚を基に、自分の存在を実感しています。これを顕在意識といいます。

 

ところが、この世の肉体に関係した部分だけではなく、この世を超えた領域にも、いわば時間空間をはみ出して、自分の延長が存在しているのです。顕在意識では認識できなくても、意識を超えた領域にも自分は存在しています。

 

その中心的な、核の部分を真我、またはハイアーセルフと呼びます。この真我が、過去や未来も含めた、自分の存在の全体を統括しているという意味で、本来の自分であると言えます。

 

そして、この真我は、神のひとつのピースを構成しています。つまり、宇宙を創造した根源神というのは、実は、無数の我々の真我の集まり、集合意識であるのです。

 

 

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わけが分からなくなってきたでしょうか。

 

でも、これが、現在のスピリチュアルの世界では通説なのです。

 

 

言い換えると、人間が「神の子」である、という言葉には、自分は根源神の一部であり、それゆえ人格を超えた部分があるという理解が含まれます。

 

自分の中核部分には、愛の「エネルギー」、あるいは、愛の「摂理」ともいうべき、人格を超えた、全宇宙と不可分一体の「何か」があるということです。その自覚が「神の子」ということです。

 

根源神は、この宇宙の万物を創造したエネルギーですから、 完全であり無限です。

 

「神の子」私たち人間も根源神のかけらが埋め込まれていることから、私たち自身も完全であり、無限であるということになります。

 

このことを、心の深いところで確信できれば、源の創造のエネルギーを使いこなすことができるようになります。

 

「からし種一粒ほどの信仰」があれば、思いの力で宇宙が動くのです。

 

このように、自分の中核部分が愛の「エネルギー」なら、自分の本籍地は、三次元の物質世界にはなくて、目に見えない霊の世界にあるという理解は当然のこととなります。

 

そして、「愛」である真我が、霊の世界と物質の世界を行ったり来たりしながら、「愛」としての自分を体験し、その理解を深めているというのが、「自分とは何か」についての、スピリチュアルの立場からのひとつの定義になります。

 

注目すべきは、形のある三次元の物質世界では、自他の区別があるのですが、その中核部分になると、もはや自他の区別は意味をなさないという事です。

 

そして、人間だけでなく、動物も、植物も、鉱物も、全てがこの一つの源が現れ出たものです。ですから、源神の世界まで来ると、全ては一つであり、繋がっているということです。

 

スピリチュアルでは、このことを「ワンネス」と呼んでいます。

 

 

人生の意味

 

 

以上が、全ては源とひとつであること、そして、自分は根源神と同じものであるという説明です。

 

ですから、「人は神」なのです。

 

繰り返しますが、この説明はひとつの比喩であり、現代人にも受け入れることができる「本当らしい物語」(神話)の一つにすぎません。

 

私はこの世界観が正しく、ほかの世界観が間違っていると主張しようとして、この話をしているのではありません。

 

あくまでアセンド・ラピスの本作りのコンセプトを説明しようとして、その根が思想的に深いところにあり、またその話が込み入っているため、段階的に説明をしています。

 

長くなりますが、もうしばらくお付き合いいただけると幸いです。

 

 

さて、私たちは、今、マテリアル(物質)の世界、目に見える現象の世界の中に住んでいますが、実は目に見えない世界にこそ、自分の本籍地があるということになります。

 

では、私たちは今なぜ、目に見える三次元の物質世界にいるのか、その理由は何であり、どういう目的でこの世に生まれてきたのか、という疑問が出ます。

 

この問いは、すべての哲学者にとって本質的な問いであり、謎です。

 

考えてみると、すべての人が、物心ついたころ、思春期に恋愛の問題で悩み始めるころ、同じくこの問いに出会います。

 

自分とは何者なのか?

 

なぜ今ここにいるのか?

 

なぜ生きることはこんなに苦しいのか?

 

この問いの答えは、学校では教えてくれません。

 

この問いになんとか答えようとしているのが、宗教の教祖であり、スピリチュアルの教師たちです。

 

しかし、宗教やスピリチュアルのことを真剣に考える人は少ないでしょう。

 

ですから、ほとんどの人は、「人生の目的」を、「この世的な価値観」から「望ましいとされていること」を達成することだと考えています。

 

その結果、「自分自身の物差し」で生きることを忘れてしまいます。

 

それは、人生の喜びや満足を自分で自分から遠ざけてしまっているということです。

 

 

自分の人生を自分自身に取り戻すためには、「この地上世界は、魂が体験を積むために設えられた舞台である」という視点がどうしても必要です。

 

私たちは、具体的な形を通してしか体験ができず、体験がなければ経験を通して物事を学ぶことができません。このため、マテリアルの肉体と、マテリアルの地球が「人間のために」用意されているのです。

 

この地上は、学芸会の舞台で役を演じているようなものだ、というわけです。

 

 

そして、最も重要な理解は、この転生を計画し、シナリオを書いているのが、ほかならない自分自身である、ということです。

 

自分の人生計画は、自分自身が設計したわけですから、目的ははっきりしています。その事は、あの世に帰ればすべてわかるようになっています。

 

言い換えると、私たちの人生には、必ず、自分の個性に応じた具体的なテーマ、そして、過去世のカルマに関連する課題と目標があるのです。

 

ですから、「自分の魂が成長するための課題は何なのか」を推し量り、自分自身のテーマを全うすることに、生きる意味を求めなければならないのです。

 

「この世的な価値観」で「望ましいとされていること」を達成することを人生の目的にしてはいけないのです。

 

地上に出た顕在意識では、こうした事情はわかりませんが、自分の性格や家庭環境、起きてくることなどをよく観察すれば、何が今世の自分のテーマであったのか、課題は何なのかが推測できるはずです。

 

そうして、自分自身の独自のテーマを生きると腹をくくり、覚悟を決めた時に初めて、世の中の「価値観の呪縛」から解放されるのです。

 

世間的な価値観に縛られ、他人の物差しに合わない自分を否定している時には、恐れがあります。

 

恐れがある時には、もともといた愛の世界から迷い出てしまっています。

 

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先ほど、根源の神は愛のエネルギーであると言いました。

 

エネルギーであるということは、エネルギーなのです。

 

愛はファンタジーの世界にあるものではなくて、現実の世界で働くれっきとした物理的な力なのです。

 

私たちの意識が「愛」の世界に同調した時に、神の創造のエネルギーを使うことができるようになります。

 

これまで筆者が長々と意識の話をしてきたのは、この原理を語りたかったからなのです。

 

「愛の力」を知ることが今起きつつある地球の変化を理解する要諦です。

 

自分の人生を生きる事が大切であるゆえんです。

 

 

 

人生の究極のテーマは愛である

 

 

ある人が「自分自身のテーマを生きる覚悟を決めた」とします。

 

そのテーマの実現に必要なものは、何だと思いますか?

 

お金でしょうか。

 

学歴でしょうか。

 

コネでしょうか。

 

いいえ、違います。

 

それは、「愛」です。

 

 

これは、決して道徳の観点から言っているのではないのです。

 

スピリチュアル的な、精神科学的な原則がそうなっているのです。

 

これまでの世界観では、愛は精神的なもので、人生の創造とはなんら関係がなかったのです。

 

ところが、スピリチュアルな世界観では、愛はエネルギーであり、人生の創造をドライブする鍵なのです。

 

人生とは、他者や、社会や、地球環境に対する絶え間ない働きかけです。

 

そういう、人の創造活動自体が愛であると認識され、評価される時代に、地球が変わりつつあるということです。

 

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デヴィッド・ホーキンス博士が「パワーか、フォースか」という本の中で、「意識のマップ」を使って、恐れと愛の違いについて、わかりやすく説明していますので、ご紹介します。

 

「意識のマップ」では、思いの波動レベルを、相対的な数値で示しています。ブッダやキリストのような最高レベルを1000とします。

 

ホーキンス博士によると、エゴの臨界点が200です。200以下は恐れ、200以上が愛の領域です。「受容(赦し)」は350、「(無条件の)愛」は500、「平和」は600です。

 

200以下のレベルの意識では、物質的な因果関係を力づくで作りだそうとします。この力を「フォース」と呼びます。

 

これに対して、200以上のレベルの意識では、目に見えない、原因の世界に関係した高いエネルギーのアトラクターフィールドに働きかけ、宇宙の叡智を活用して物事を成し遂げる事ができます。この力を「パワー」と呼びます。

 

簡単にいうと、「フォース」はエゴの力、「パワー」は愛の力です。

 

 

つまり、こういうことです。

 

私たちの肉体は、共通の、ひとつの地球の上に住んでいるのですが、私達の意識は、二つの階層または次元に別れて、別々の地球に住んでいるということです。

 

一つは、愛の世界。

 

もう一つは、エゴの世界。愛のない世界です。

 

愛の世界に住んでいる人は、恐れがありません。そして、宇宙の叡智を活用して物事を楽に成し遂げる事ができます。彼にとって生きるとは、他人のために、自分が神から与えられた使命を果たすことです。

 

愛のない、恐れの世界に住んでいる人は、たえず外の世界に働きかけ、他人を支配し、他人から富や価値を奪わなければ、生きていく事ができません。彼にとって生きるとは、自分の肉体の安全を確保し生きのこることです。 

 

スピリチュアル的には、前者の意識を「統合意識」、愛と平和の波動に満ちた次元の地球を「第四密度」といいます。これに対し、後者の意識を「分離意識」と呼び、争いの波動に満ちた次元の地球を「第三密度」と言います。

 

地球のアセンションとは、人類の波動が、第三密度から第四密度に上昇するということです。それは一言で言えば、全ての人が、愛の力によって、本当の自己実現をしている世界のことです。

 

 

低レベルの波動が引き起こす社会の軋み

 

 

こう考えると、現在全地球的な規模で起きている、グローバリズムの進展による社会の軋みは、スピリチュアリティを前提として考えないと、根本的に解決がつかないということがわかります。

 

どういうことかというと、現在の地球の問題は、価値観の違いから起きているのでは「ない」ということです。

 

人類の魂の「未熟さ」から起きているということです。

 

価値観の問題にすり替えることを許してはならないのです。

 

「愛の世界」では、多様な価値観が調和して共存します。「愛のない世界」にいるからこそ、価値観の衝突が起きるのです。

 

(多様な価値観を認めない)不寛容な価値観を寛容に認めて、地球が愛のある世界になるわけはありません。

 

人類の「魂の未熟さ」を考慮に入れなければなりません。

 

愛であることが、一人一人が自分の使命を果たすために必要だから、愛の温度を上げていかなくてはならない、ただそれだけです。

 

あくまで、一人一人が、自分の人生のテーマを全うするために「愛の力」を使いこなすべきなのです。結果として、寛容な社会が生まれるのです。

 

「自分のため」というのは、「愛の力」が使える意識の波動レベルにある人にとって、「自分」の領域は、社会や地球環境にまで広がっているからです。

 

「愛の力」を使うにはどうすればいいのでしょうか。

 

筆者の考えでは、先に述べたように自分が根源神と同じ「神の子」であるということを理解し、他者や社会や地球環境へ興味関心を広げて、愛と慈悲を動機として行動すれば良いのです。

 

Googleでは、社内教育で、仏教の「慈悲の瞑想」を取り入れているそうですが、スピリチュアリティをビジネスに活用する取り組みはこれから欠かせないものになっていくのだろうと思います。

 

「愛の力」の本質的な重要性を理解できず、エネルギーとして活用できない企業は、新しい地球ではもはや生き残ってはいけないはずです。

 

グローバリズムによる社会の軋みと言っても、グローバル企業に勤務している社員が「魂の未熟なグローバリスト」だと言いたいわけではありません。

 

そういうレッテルづけは、ヘイトスピーチの類で何の意味もありません。

 

グローバル企業で働いている人に悪意はありません。それは、私自身が、グローバル企業の中にいたのでよくわかります。

 

その企業を率いているマネジメントにも、悪をなそうと考えているものは一人もいません。ほとんどの人は、自分のなすべき使命を命がけで全うしようとしているだけです。

 

グローバリズムの戦略は、大企業を株式で支配している金融資本家によってなされているといいます。

 

しかし、その戦略を立てて、推進している人自身も、このようなことはわかっていないはずなのです。

 

本人は、本気で、人類の為に、おそらくは、神のために奉仕していると信じて行動しているに違いないのです。

 

ですから、どこにも悪人はいないのです。

 

ですが、およそエゴの世界に住んでいる人に欠けているものは、「愛の力」を使う能力です。

 

他人の痛みを自分の痛みと感じる能力を封印して、「エゴの力」を使わざるを得ないのです。

 

ですから、恐れの次元で活動している会社や人々は、そうした「魂の未熟さ」を考慮に入れて、赦さなければなりません。

 

私たち自身も魂は未熟なのです。

 

 

「フォース」によって三次元の世界を変化させようとする人たちがいます。

 

でも、私たちは、彼等と同じ土俵で戦うことはすべきではないと思います。

 

そうすれば、「フォース」の世界に落ちてしまうからです。

 

まず私たち自身が、「愛の力」を使えるようになって、より良い世界を作るために、自分自身の使命を果たそうではありませんか。

 

愛の世界にふさわしく、謙虚に、楽しく、自分の本来の使命を全うすることです。 

 

 

アセンド・ラピスが提供する心の種子

 

 

さて、ようやく私たちが作りたい心の種子のイメージが明らかになってきました。

 

今地球に必要な「心の種子」とは、こうした「愛の力」で社会を作り変えようとする、次世代の地球人たちのハートを開くために役に立つ、スピリチュアルなエネルギーを含む、社会の課題解決に関わる情報です。

 

つまり、具体的な条件を挙げるなら、まず、社会の課題解決に役立つものでなければなりません。

 

そして、読者を欲望の経済に向かわせるのではなく、愛の経済の方向に力を与えるような、スピリチュアルなエネルギーを含むものでなくてはなりません。

 

扱うべきテーマとしては、環境、科学、経営、芸術など、広範囲にわたると思います。また、直接的に社会の課題解決に役立つことはなくとも、読者を健全で良質なスピリチュアルの世界に誘い、豊かな精神性を涵養してくれる文芸も付随的に必要だと思います。

 

また、「心の種子」には、明るく豊かな地球の未来のビジョンが含まれていなければなりません。そうすれば、種子は自然に芽吹いて、やがて地球に豊かな実りをもたらすことになると思います。

 

「小さな出版社」の記事でモデルとして対比した、営利目的での本づくりの場合は、暗黙的に「会社として儲けること」「著者として有名になること」という動機が優先されるため、こういうチェックがされる保証は必ずしもありません。

 

これに対して、私たちは、コミュニティビジネス的なビジネスモデルを採用しています。もちろん、できる限り、売れる本を作りたいと思いますし、そのために努力することが製作者自身の学びの課題にもなると思っていますが、それ以上に、こうした、事業の公共性の部分にこだわることをより重視したいと考えています。

 

公共性をより重視した本づくりとは、ちょうど、植物の種でいうと、固定種に特化した種屋さんのようなものだと思っています。より自然に近い、強い個性とエネルギーを持つ、地域に根ざした固有の種子の遺伝子をそのまま生かし、自家採種や家庭菜園のために使っていただくことです。

 

固定種の種は、他の固定種と掛け合わせて、F1(一代雑種)を生み出すためにも使われます。つまり、営利目的の商業出版に対立するという理念ではなく、商業出版の原種としても使ってもらえるような、高品質の心の種子を作りたい、ということです。

 

幸い、最初の協力者となってくださる著者の方が二人ほど現れ、現在その方達の本の編集を始めています。その本を商品にして、販売を始めることが、目下の課題です。次の課題は、そうした固定種のような、貴重な「心の育種家種子」をお持ちの、私たちと世界観が似た著者の方をどうやって探していくかという事です。ただそれはもう少し先の仕事になると思います。

 

まだなんの実績もないのに、いささか大言壮語にすぎる夢を語ってしまいました。会社の立ち上げに際して、一つの軸を作って思いを固めるためには理念を突き詰めることも必要であるということで、寛大にお許しいただければと思います。

 

長文におつきあいいただき、ありがとうございました。