小説の品質について

これまでも何度か書いているように、筆者は本づくりをアプリケーションづくりと同じ工程の中で開発しようとしています。それは具体的には、まず業務の目的を定義して、そのための機能を定義して、それを入出力やユーザーインターフェースのデザインに展開するということです。しかし、伝統的な考え方からすると、特に文芸のジャンルは、文章による芸術ですから、根本的にシステム作りとは相いれないものなのではないかという批判がありそうです。

 

実はこの問題は、突き詰めると芸術についての考え方、芸術論にまで行きつくと筆者は考えています。芸術論というのは、芸術の目的を考えることとほぼ同じです。もちろん、「芸術に目的なんかない」というのも、一つの考え方ではありますが。

 

「音魂よ、舞い上がれ!」の中で、著者の橋口さんも独自の芸術論を語っておられます。それとは異なりますが、筆者も筆者なりの活動の根拠となる考えを持っています。それはトルストイの芸術論です。

 

トルストイは、とても宗教的な人でしたので、一つの理想を持っていました。簡単にいうと、世の中を愛の溢れる世界にしたいと思っていたのです。つまり、目的は、普遍的な愛で、それを実現するためにキリスト教的な世界観を骨格にして、それを社会や、個人の資質や習性にまで展開するための手段として、科学と芸術を位置付けたのでした。特に芸術については、宗教と異なり、言葉を使わないで、感情を使ってダイレクトにメッセージを伝えることができると考えました。

 

こうした芸術の目的論をもとにした場合、成果物である小説が持つ機能が重要になります。筆者の考えでは、小説の持つべき機能とは、「感化力」のことです。別の言葉でいえば、人を元気にする力とか、優しくする力とか、安らぎを与える力とか、そういったエネルギーを現実に持っていることです。

 

これは、何も小説や絵画などの芸術でなくともよく、例えば、建築デザインの場合、「住む人を健康にする家」「住む人をお金持ちにする家」といった機能が考えられます。実際、こういうテーマで風水を使って建築設計をしているデザイナーもいます。

 

ある原理の下に建てられた建物がなぜそういう力を持つのかについては、なんらかの理由付けが必要になりますが、どのような原理であれ、とにかく自分でその仕組みを考えて、仮説を立てて実験する態度が重要であると思います。

 

トルストイが重視した「感化力」は、読んだ人を「愛の人」にする道徳的感化力のことです。キリスト教の愛ですから、それは「赦し」です。トルストイは、小説を読んだ人が、それに感化され、寛容になって、実際に生活の中で愛の行為をなす人になる、ということを目指して、小説を書いていたのだと考えられます。

 

筆者が小説に求めるものは、読者が、自分の中にすでに持っている光、愛、あるいは聖なる力に気がつくという意味での「感化力」です。そういう小説が、いまの世の中にはほとんどありません。

 

筆者は、小説は、読者の将来を左右するくらいの大きな力を持っていると思いますが、その感化力を決める、一番の決定的な要素は、書き手のもつ世界観だと考えます。

 

というのは、小説を読むと、読み手は、無意識のうちに、書き手が前提としている世界の中に引きずり込まれていくからです。それは波長の世界ですので、その小説の世界の波長に染まると、読者はそれに同調した体験を引き寄せ、それにふさわしい世界が実際に展開します。

 

そこで問題なのは、その小説に、言葉として何が書かれているかではなく、作者がこの世界をどういうものとして理解しているかという事です。物語の行間に、あるいは言葉の端々に、作者が無意識に前提としている世界がもれなくついてきます。そして、「世界とはこういうものである」「私とはこういうものである」「人生とはこういうものである」という定義が、読者の無意識の中に刷り込まれていきます。

 

有名な某ノーベル賞候補作家の本でも、筆者は読むと何か淀んだものが体にまとわりついてくるような感じがします。それはその作家がその小説を書いているときに通じている意識の世界の波長の中に入ってしまうからです。

 

作者が持っている世界の波動の明るさ、あるいは清浄さという点からいうと、「音魂よ、舞い上がれ!」は、某ノーベル賞候補作家の本をはるかに超えていると思います。

 

おそらくその原因は、著者が持つ、この世界についての基本的な信頼感にあります。言い換えると、まず、目に見えない世界があることを前提としているのは某ノーベル賞候補作家と同じですが、その世界が愛一元の世界だということ、そして、人間がその自由意思でこの世界を良い方向に変えていけると信じていることです。

 

技術はもちろんですが、この書き手の世界観、あるいは基本的な信念こそが小説の価値を決める最重要の要素だと考えます。もちろん、それは、筆者なりの芸術論を前提としての話ではありますが。この書き手としての素養は、付け焼き刃では到底太刀打ちできない類のものです。

 

「音魂よ、舞い上がれ!」は、15歳の少女の話ですが、これから自分の世界を創造していく若者に必要なのは、旧世界でくたびれ果てた大人の「世界はこんな程度のものだ」という世界観ではありません。

 

実は、筆者は、15歳の頃、「人生はなんでこんなに苦しいんだろう」と思い、「いつか、人類を救う大哲学を作ってみせる」と志を立てたものでした。筆者は、なぜか哲学が大好きだったのです。結局、学者としての哲学者にはならなかったのですが、自分自身を哲学するという作業は、自分のライフワークとして、ずっと続けてきました。そこで現在思っていることは、(唯物的でなく)スピリチュアルな世界観を持っていることの大切さと、自分の思いを常に調律できる技術を持つことの大切さです。

 

その筆者の目から見ても、橋口さんのスピリチュアリティについての理解には確かなものがあると感じます。また冒険譚の部分は、かつての奇想天外なSF作家のエドガー・ライス・バローズの筆力を彷彿とさせるものがあります。(筆者は少年時代にバローズの小説が大好きでした。)

 

「音魂よ、舞い上がれ!」は、まだ自我が目覚めていない小学校高学年でも、冒険譚つきの神話として楽しく読む事ができます。おそらく、自我意識のできた高校・大学生には、それに加えて、自分が住む内的な世界が広がる面白さを感じてもらえると思います。さらに、成人、高齢者になっても、哲学的な深いテーマを考える材料が散りばめられているので、味わいのある歴史小説として楽しんでもらえると思います。

 

なお、「音魂よ、舞い上がれ!」は、主人公である瑠璃の自己形成小説(教養小説)になっており、1、2巻ではまだ未熟なのですが、巻が進むにつれて、神職である仁美や比呂志から色々教わって、知恵や知識が増してきます。

 

その教養とは、一言で言うと、アセンション後の地球人としての内的な世界の素養です。つまり、この本を最後まで読み通し、瑠璃とともに内的な経験を積むことで、知らずしらずのうちに、自分の世界が、アセンション後の世界にワープしてしまうのです。

 

いわば、この本自体が、光の柱であり、読者自体が、ボルテックスに変わってしまう、究極的には、そういう品質を作り込むことを目指しています。そういう小説が、ちょうど時代の変わり目にさしかかったいま、まさに必要とされているのだと思います。